吉田松陰が主宰した松下村塾。
高杉晋作や久坂玄瑞といった松下村塾の四天王を始め、初代内閣総理大臣を務める伊藤博文など多くの塾生が育っていきました。
今回は松下村塾の塾生達をそれぞれの逸話を交えながら紹介します。
松下村塾の四天王
吉田松陰の主宰した松下村塾には四天王と呼ばれる秀才がいました。
1人は長州の革命児として歴史的にも有名な高杉晋作。
では、この高杉晋作と肩を並べた他の3人はご存知でしょうか?
詳細記事⇒松下村塾での吉田松陰の教えと四天王と呼ばれる塾生!!
高杉晋作
高杉晋作が残した『おもしろきこともなき世をおもしろく』という辞世の句。
この歌を聞いて、『おもしろくない世の中をおもしろくしてやる』という革命児と呼ばれた豪快な高杉晋作のイメージを持つ人も多いと思います。
ただ、本来この歌は豪快ではなく繊細な晋作の一面を表した歌だと言われています。
詳細記事⇒高杉晋作の名言・辞世の句と言われる歌の続きと意味!!
功山寺挙兵
高杉晋作の人生で最大の見せ場、功山寺挙兵。
圧倒的に不利な状況で挙兵し、藩の正規軍との決戦に挑みます。
この戦いでは高杉晋作の軍略の才だけでなく、人を惹きつけるカリスマ性が証明されることになります。
詳細記事⇒奇兵隊と功山寺挙兵!!回天義挙で高杉晋作が椋梨藤太を粛清!!
久坂玄瑞
吉田松陰がその才能を見抜き、実の妹と結婚させた久坂玄瑞。
高杉晋作とは松下村塾の中でも常に競い合うライバル関係にありました。
詳細記事⇒久坂玄瑞と文の結婚と吉田松陰!!
高杉晋作との関係
高杉晋作と久坂玄瑞はライバルであり同志、そして心を許せる友人でもありました。
年も身分も高杉晋作の方が上でしたが、晋作は久坂玄瑞に対しては尊敬の念を抱いていた部分もあるようです。
そして、時にはその思いが嫉妬に変わってしまう事も・・・。
詳細記事⇒高杉晋作と久坂玄瑞の本当の関係とは!?
入江九一
吉田松陰が過激な思想になり、多くの塾生が去って行く中でも常に松陰の声に耳を傾け続けた入江九一。
弟の野村靖と共に松陰の指令を実行に移して獄に繋がれることもありました。
そんな入江九一は頭も良く、高杉晋作に堂々と異を唱えることのできる存在だったと言われています。
詳細記事⇒入江九一 久坂玄瑞と共に禁門の変で最期を迎えた松下村塾四天王!!
久坂と入江の最期
禁門の変では将来有望な若者が命を落としました。
松下村塾の塾生でも久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎といった有能な人物が志半ばで無念の最期を遂げています。
詳細記事⇒禁門の変での久坂玄瑞、入江九一の最期!!
吉田稔麿
頭が良く、松下村塾の四天王に名を連ねる吉田稔麿。
稔麿は勉強ができるだけでなく、槍の使い手としても一流の人物でした。
しかし、池田屋事件で新撰組に襲われて無念の最期を遂げます。
伊藤博文
伊藤博文は農民出身でありながら初代内閣総理大臣にまで登りつめた、幕末版の豊臣秀吉のような人物。
身分の低かった伊藤博文でしたが、高杉晋作や桂小五郎といった先輩たちに可愛がられながら幕末の動乱を生き抜いていきます。
詳細記事⇒伊藤博文の評価と桂小五郎から受けた恩!!
旧宅
伊藤博文が松下村塾に通い、青春時代を過ごした旧宅が現在も萩市に残っています。
松下村塾からもそれほど離れてはおらず、当時の伊藤博文の暮らしが想像できる貴重な史跡となっています。
伊藤博文と吉田稔麿
吉田稔麿と伊藤博文は家が近く、吉田松陰が受け継ぐ前の松下村塾(寺子屋のようなもの)で一緒に勉強していました。
字の上手さは伊藤博文の方が上だったようですが、その他の成績は稔麿の方が勝っていたそうです。
詳細記事⇒ご近所の仲良しコンビ!!吉田稔麿と伊藤博文のライバル関係!!
前原一誠
吉田松陰が実直な人柄を評した前原一誠。
松下村塾の中では優しい兄貴的な存在だったようです。
しかしその実直さが災いしてか明治新政府に対して反乱を起こし、その余波が玉木文之進へも広がっていきます。
詳細記事⇒前原一誠の最期と萩の乱が玉木文之進に与えた波紋!!
山県有朋
松下村塾で吉田松陰に学んだ期間は僅かながら、高杉晋作の創設した奇兵隊の軍監を務めた実力者。
明治政府では西郷隆盛に引き立てられ出世。
しかし西南戦争が起こると、大恩ある西郷隆盛を討つための軍を率いて出陣することになります。
詳細記事⇒山県有朋(狂介)の奇兵隊での出世と西郷隆盛との関係!!
松浦松洞
現代に残る吉田松陰の肖像画を描いた人物。
萩に行った時に偶然にも松浦松洞が描いた襖絵を間近で撮影させてもらうことが出来ました。
詳細記事⇒【超貴重】吉田松陰の肖像を描いた松浦亀太郎(松洞)の襖絵!!
小野為八
地雷火という爆弾を作ったり、写真家としても活躍した松下村塾の塾生の中でも異色の人物。
詳細記事⇒吉田松陰を背負って地雷火実験に連れ出した小野為八!!
野村靖
吉田松陰が書いた2冊目の留魂録を受け取り、現代に残した人物。
兄の入江九一と共に常に師である吉田松陰の命を聞き続けました。
赤根武人
奇兵隊の3代目の総督。
長州藩の融和を図る事に失敗し、非業の最期を遂げる。
詳細記事⇒赤根武人(あかねたけと)奇兵隊総督から失墜した男の哀しい最期!!
今まで知らなかったこと・知りたくなったこと
①高杉晋作の人生で最大の見せ場、功山寺挙兵。
ウィキペディアで調べていると、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、ある。藩政の誤りである。
②吉田松陰が過激な思想になり、多くの塾生が去って行く中でも常に松陰の声に耳を傾け続けた入江九一。
名前を聞いたことがある程度だったので調べた。禁門の変で亡くなったこと等を知りました。
③頭が良く、松下村塾の四天王に名を連ねる吉田稔麿。
彼が亡くなった「池田屋事件」を調べると、意外なことがわかった。犠牲者の中に町人がいること、しかも女性(池田屋女将)がいたこと。そして、池田屋主人や和泉屋主人・手代・丹波屋主人とその子が亡くなっていること。和泉屋・丹波屋は何の関係があったのだろう。