今回は入江九一の弟、野村靖についてです。

野村靖は吉田松陰に尽くし、2冊目の留魂録を現代に残すのに一役買った人物です。

 

師・吉田松陰に対する尊敬の念は深く、その思いは靖の遺言からも推し量ることができます。

 

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松下村塾と松陰神社

萩市に保存されている松下村塾の建物は、修復されていますが、幕末当時のものです。

また、松陰が亡くなった後、その兄、杉民治(梅太郎)が松下村塾跡に祠を建てていました。

 

これが明治40年に新たに建立し直され現在の萩市松陰神社となるのですが、その中心となって活動したのが伊藤博文と野村靖でした。

 

野村靖の生涯

野村靖は、村塾四天王の入江九一の五歳年下の弟です。

なお、伊藤博文の最初の妻、すみは実の妹です。

 

松下村塾は武士や町民など身分の分け隔てなく塾生を受け入れたので、身分の低い足軽だった兄弟は松下村塾に入門して吉田松陰に師事。

やがて尊王攘夷の志士として数々の活動に参加します。

 

老中・間部詮勝の暗殺計画が発覚して兄と共に投獄されるも、翌年赦され、イギリス公使館焼き討ちに参加。

この頃身分を足軽から士分に取り立てられます。

 

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野村靖  wikipediaより

 

その後、入江九一は禁門の変で討ち死にしてしまいますが、靖は幕長戦争に参加し勝利。

維新後は、次々に新政府の要職に就き、岩倉具視の欧米使節団として海外渡航も果たします。

 

死後は「松陰の傍に」という遺言のとおり、東京都世田谷区にある松陰神社内の吉田松陰の墓所と同じ区域に埋葬されています。

 

2冊目の留魂録

吉田松陰は遺書である留魂録を2冊作っています。

この留魂録については改めて記事にしようと思っているので詳細は省きますが、1冊は伝馬町で同じ牢獄にいた沼崎吉五郎に託されました。

 

後に沼崎吉五郎は遠島となりますが、その時も松陰から託された留魂録をずっと携えていました。

 

そして、明治維新を迎えて東京に戻った沼崎吉五郎は松陰との約束を果たすため、松下村塾の塾生を探します。

その時に訪ねたのが神奈川県令となっていた野村靖でした。

 

現在、萩の松陰神社の至誠館にある留魂録はこの時のもので、松陰の遺書は沼崎吉五郎と野村靖によって現代に残されています。

 

若き日の逸話 兄・九一との違い

上記のような略歴をみると、さすが明治の英雄という感じですが、実は靖にはこんな逸話があります。

先の岩倉獄に投獄された時。

 

野村靖は次男坊の無邪気さからか、不自由な獄囚生活に飽き、母にさかんに差し入れなどの無心をしたそうです。

足軽の家は大変貧しく日々の生活にも事欠くような中、母はそれでも出来るだけ金策し、差し入れを続けます。

 

そんなある日、他の囚人から「隣の獄舎にあなたに顔がよく似た人がいるが、あなたに比べその人は、ただでさえ獄中で大変なのに内職などし、わずかでも実家に送金しようと必死で働いている」と言われます。

 

靖はそれが同時期に投獄された兄であることを即座に悟ると、はらはらと落涙し、自分の不徳を恥じ、心から改心したと言われています。

 

このエピソードを聞くと、流石は松下村塾の四天王と言われた入江九一といった感じですが、即座に自分の行いを恥じて改心した靖も素敵ですね。

 

靖は禁門の変で散った兄の分まで、明治時代に尽くします。

ちょっと変わったエピソードでは、神奈川県令時に明治天皇の侍医として有名なベルツに神奈川県大磯で海水浴場の適地調査をさせています。

現代では全く維新志士のイメージがわかない場所ですが、このように意外と我々にも馴染深い地に維新志士の足跡があったりもします。

 

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