『キングダム』が連載を開始してから、急激に取り上げられるようになったのが主人公・信のモデルとなった将軍・李信です。

 

『キングダム』の主な登場人物は、普通ならそれほど触れられることがない人物が脇を固めており、「下級兵士」の立場から秦王朝の興隆を眺めています。

 

大河ドラマや小説も、近年はややマイナーな人物の視点から取り上げることが主流になりつつありますね。

それだけ読者の知識も豊富になってきたのでしょう。

 

今回は信のモデルとなった李信がどのような人物だったのかについて見てみましょう。

彼から見た秦帝国の興亡は、一体どのようなものだったのでしょうか?

 

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信のモデルは謎だらけの将軍

『キングダム』では、信は少年の姿で登場しその出自は貧民ということになっています。

では、史実の李信はどのような生い立ちを迎えているのでしょうか?

 

実は、これが全くわからないのです。

『史記』を筆頭に中国の歴史書は紀伝体と呼ばれるスタイルを取っています。

すなわち、人物1人ずつに焦点を当ててその生涯を追っていくというミニミニ一代記が何十人、何百人分と掲載されているのです。

 

『史記』以外の歴史書は基本的に王朝一代の断代史であるので、最初は歴代皇帝、次に皇后や皇帝以外の皇族、功臣等の著名な人物を紹介し、最後に辺境の国やその時代の土地や官職のデータ概略を載せています。

ところが、『史記』は伝説時代から司馬遷が生きた前漢武帝時代までの通史であるので、スタイルが少し異なります。

 

最初は伝説時代の神、次に夏・殷・周といった最古の国々、そして秦の歴史、始皇帝、項羽、劉邦、前漢の歴代皇帝となります。

それが終わったら今度は春秋戦国時代の負けた諸国、孔子等の思想家、そしてようやく著名人となります。

土地のデータなどはもっと後で、通史であるだけにボリュームも凄まじいです。

 

これだけ多くの時代を集めたのなら少しくらいは李信個人のデータがあってもよさそうなのですが、残念ながら彼個人の伝記は存在しません。

 

李信が『史記』で最初に登場するのは”紀元前229年~紀元前228年の間に、ベテランの将軍・王翦(おうせん)が趙の大軍と接している間に別動隊として太原・雲中(どちらも現在の山西省北方)に出征していた”という記録からです。

『キングダム』では、41巻をかけてようやくこの辺りまで物語が進んできたというところでした、つまり『キングダム』では41巻分、連載期間にして約10年もの間、史実上では李信の動向不明な部分をフィクションで描いていたのです。

 

次に名前が出るのは、紀元前226年に秦王暗殺未遂の報復として燕を攻めることを決めた時に、王翦・王賁(王翦の息子)が燕の都・薊(けい、現在の北京)を陥落させて燕王喜と太子丹を追い込みましたが、この時に李信が1000の兵を率いて燕軍を追撃し太子丹を討ち取ったという記述です。

 

ここまでの李信は、戦に長けた将軍であり史書に名がでるような人物であったのは間違いないようですが、実態はさほどわかっていません。

 

『史記』の中で李信が行ったとされる最も有名な行動は、何と敗戦でした。

紀元前225年、いよいよ大国・楚を滅ぼそうと考えた秦王ですが、その際にどれだけの兵数が必要かと臣下に問いました。

李信はこれに対し「20万あれば十分です。」と答えました。

 

一方、王翦(燕滅亡後に一度引退していたが、呼び寄せられた)は「60万は必要でしょう。」と慎重な回答をしました。

秦王は当時自分達が勢いに乗っていたので、王翦の意見はもうろく括つに分け、片方は李信が、片方は蒙恬(もうてん)が率いることとしました。

 

緒戦では二軍はそれぞれ大勝し、二軍はかつての楚の都であった郢(えい)の周辺で再び大勝することができました。

しかし、城父(じょうほ)という場所で李信と蒙恬が合流したところで三日三晩追撃してきた楚の名将・項燕(こうえん)によって彼らは大敗してしまいました。

 

この知らせを聞いた秦王は、止む無く王翦を呼び戻して彼と李信を交代させました。

王翦は蒙恬の父・蒙武(もうぶ)と共に60万の兵を率いて、結果項燕を倒して楚を滅亡させました。

李信はこの話では王翦のいい引き立て役になってしまっています。

 

余談ですが、この項燕が項羽の祖父であり、項羽が秦を恨んでいたのは秦が父の仇であったからなのです。

 

この時点で残る敵国は、燕(先年の攻撃を何とか生き延びた)・代(趙の王族が建てた亡命政権)・斉の3つでした。

李信はその後、これらの国を滅ぼす戦い全てに参加し、結果として秦の天下統一に貢献したのです。

 

同時に、李信に関する記述もここまでで途絶えてしまい、以後どうなったか、どのように最期を迎えたのかについては全くわからずじまいとなってしまいました。

 

 

嘘か真か?!『新唐書』に記された李氏の家系図

時は800年も下って唐の時代。

唐王朝を建国したのは鮮卑の流れを汲む李淵(りえん)でした。

 

その唐について後の時代に編纂された『新唐書』では、李淵から始まる李氏は実は老子(老子の本名が李耳だから)の子孫、ひいては李信の子孫であるという件から家系について記されているのです。

 

一方、前漢武帝の時代に匈奴征伐で有名であった李広(りりょう)、その孫である李陵(りりょう)は『史記』『漢書』では李信の子孫であると記されていますが、間の世代については何も記されていません。

ですが、李陵らの家系は当時から隴西李氏とよばれる武門の家柄としてとても知られた家のようでした。

 

隴西と言えばちょうど秦の都である咸陽があった地域の近く、李信が秦以外の他国の出身でないとすれば、ちょうど辻褄が合う話ではあります。

そこで、ここでは不確かですが『新唐書』『史記』『漢書』の記述を無理やりつなぎ合わせて、李信の一族について考察してみましょう。

 

李信がいつ亡くなったについては全くわかりません。

しかし、その後に項羽や劉邦といった諸侯達とまるで交戦した記録がない所を見ると、その時期には既に亡くなっていたと考えるのが最も自然です。

 

始皇帝が49歳で亡くなっているのですから、医療がそんなに発達していないこの時代では30~40代で亡くなることも決して珍しいことではありません。

 

『新唐書』では、李信は最終的に大将軍・隴西侯まで昇進しています。

大将軍といえば勿論軍事の最高クラス、そんな人が国が滅ぼされようとしている時に何もしていない、記述さえないというのはあまりに不自然ですから、李信の早世はとりあえず疑いないと見ておきます。

 

その息子には李超という人物が記されています。

詳細な事績は全く不明ですが、いきなり漢の大将軍・漁陽太守とされています。

 

秦の功臣の子孫だからいきなり出世してもまああり得ないこともないでしょうが、ちょっと突飛な気もします。

ちなみに著者が興味本位で『史記』『漢書』の歴代の官職就任者の表を見た際は、李超が生きたであろう劉邦の時代は空白で李超の名は他の箇所にも欠片も出ませんでした。

 

『新唐書』では、李超には2人の子がおり、うち弟の方が李仲翔、その子が李伯考、その子が李尚、そしてその子が李広となります。

『史記』によれば、李広は紀元前166年に匈奴征伐に功績があって時の文帝の側近となることを認められましたが、彼の死はそこから50年弱も過ぎた紀元前119年に遠征失敗の責任を問われて自害した時の事。

 

つまり、文帝の側近となった時点でまだ20代、どんなに年でも30歳を過ぎていると考えるのは難しいでしょう。

『新唐書』の記述を信じると、李広は李信の来孫ということとなり、たった50年弱もの間に6世代もの人物が現れていることとなります。

 

この計算だと、仮に親子の年齢差を25歳だとしても李信は相当な高齢でなければ辻褄が合いません。

まあ、高齢であれば項羽や劉邦が現れた時にも戦に出れなかった理由としてまあまあ意味が通じなくはないですが・・・・・。

 

ちなみに、李広の長男で李陵の父となる李当戸(りとうと)は紀元前134年に武帝の側近を殴った事績が残されていますが、間もなく早世してしまいます。

李陵は父が亡くなる数カ月前にようやく生まれた遺児です。

李当戸の正確な死の年代はわかっていませんが、李陵と司馬遷が友人であることを考えると、李陵が司馬遷と同世代である可能性があります。

 

司馬遷の生年は紀元前145年説と紀元前135年説がありますが、ここでは李陵の父が亡くなるのにより近い年代の紀元前135年説を採用しましょう。

李陵が生まれた時点で祖父の李広は生きているので、彼はおそらく孫が生まれた時点で40代後半から50代半ば、すると李当戸が亡くなったのはおよそ20代半ばから30代だと仮定できます。

子を残して早世という言葉にはちょうどいい年齢です。

 

ここから逆算して、李広が紀元前180年くらいの生まれだとすると、来祖父である李信は仮に親子の年齢差25歳だとしても紀元前305年くらいの生まれとなります。

となると、始皇帝の天下統一時点で既に70歳を過ぎた老人です。

 

現在刊行されている中国古代史の本の数々では「王翦と対照的に若い将軍である。」という趣旨の記述が普通となっています。

『史記』の王翦伝でも「李信は年若くして強壮で秦王から信任を受けて軍を任された。」とあるので、通説では若い将軍として認識されています。

どちらにしてもあり得なくもないですが、李信が老臣だというのは何かおかしな気がします。

 

さて、李氏の家系図はその後各時代で地方長官や将軍を輩出した例として歴代の人物を挙げており、その中で五胡十六国時代の西涼の主君を輩出しています。

西涼が滅ぼされると、彼らは特別な保護を受けて後の時代まで生き延び、やがて唐王朝の皇帝となる李淵までたどり着くとされています。

 

唐王朝の家系はともかく、李信の家系は李信の死後もずっと名門として利用される価値があったようです。

しかし、なぜこれほど長く続いた家系の祖ともいえる人物が至って簡素な記述で終わってしまっているのでしょうか?

 

どうも、秦が滅亡した際に秦の歴史に関する資料の大半が消失したとする説が有力なのです。

そのためか、残った資料は余さず劉邦らの手によって納められました。

それが後世司馬遷の手によって編纂され『史記』となるのです。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

実は先程李信とは対照的な人物として紹介した王翦も、始皇帝の時代までの前歴がまるでわかっていません。

 

存命時で既に孫までいるので老将だったのは間違いないみたいですが、当時の考えとしては皇帝でもない一将軍の前歴なんて誰も興味がなかったのかもしれません(勿論、『史記』成立までにちゃんと資料が揃っている人物もいるので一概にそうとは言い切れないですが)。

 

ちなみに、李信の子孫?も王翦の子孫?も後の時代には中国を代表する名族となっています。

しかし、実は開祖は成り上がりでそれっぽく見せるために自分と同じ姓の著名な人物を考えて選定したのかもしれません。

歴史上、そうしたことは頻繁に行われているので決して珍しいことではありません。

 

李信の過去が明らかになることはこれから先あるのかどうかはわかりませんが、皆さんもたまに田舎に帰った時にこっそり家系図や一族に関する記録を探ってみると、意外な出自がわかるかもしれませんよ?

 

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