松浦亀太郎。

魚屋の息子として育った亀太郎は、早くから松下村塾に入塾していた初期のメンバーです。

 

町人でありながらも、松陰の下で高い志を立てることになった亀太郎は、志士としての激動の道を歩くことになります。

 

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松浦松洞ってこんな人

松浦亀太郎は魚屋(町人)でありながら、松下村塾で学んだ人物です。

この亀太郎は画家としての才能を持ち合わせていた人物で、今、私たちが知る吉田松陰という人物のイメージに深く関わっています。

 

この亀太郎の一般的に知られている名前は、松浦松洞(しょうどう)。

失敗はしていますが師の吉田松陰と同じくアメリカに渡ろうと試みるなど、町人でありながら尊王攘夷の志を持った立派な志士でした。

 

しかし、最初から尊王攘夷の思いがあったわけでなく、亀太郎が松下村塾に入ったのは漢文を学ぶためだったと言われています。

 

松陰の肖像画を書く

松洞は絵が得意な塾生。

この一文で気付かれた方もいるかもしれませんが、実は現在に残る吉田松陰の肖像画はこの松浦亀太郎が書いたものです。

 

吉田松陰

 

松陰の肖像画は現在、下記の6点が残っています。

 

  • 萩松陰神社本
  • 吉田家本
  • 久坂本
  • 品川本
  • 岡部本
  • 中谷本

 

亀太郎は安政の大獄で江戸に送られる前に松陰が捕らわれていた野山獄まで出向き、そこで松陰の似顔絵を描いています。

この時は松陰自身も亀太郎の描く自分の絵を見て、批評をしたとも、アドバイスをしたとも伝わっています。

 

そして、この松浦亀太郎が描いた自分の肖像画に松陰自身が漢詩を書き足したものが現代に残っている6本の肖像画です。

安政の大獄で江戸に送られる前に野山獄に投獄された松陰の元には、多くの人がお別れに集まり、松陰に書を求めました。

 

その時に、小田村伊之助のすすめで松陰は自身の肖像画に漢詩を書いたのですが、この時点ですでに松陰は自分の死期を悟っていたようです。

もしかすると形見として杉家や吉田家、塾生の久坂玄瑞や品川弥二郎に送ったのかもしれませんね。

 

現在私たちがイメージする吉田松陰というのは、まさにこの萩松陰神社本と吉田家本に描かれたものです。

そういった意味で、松浦松洞が松陰の肖像画を描かなければ、私たちの松陰のイメージというのは全く違ったものになっていたかもしれません。

 

この6本の肖像画は微妙な構図の違いがあります。

私も今まで知らなかったのですが、下記の山口県文化振興課が発行している使用のPDFで見ることができるので、確認してみて下さい。

 

吉田松陰肖像

 

松浦松洞の最期

松浦松洞の誕生地は松下村塾の目の前にあります。

実際に現地を訪れてみると、松下村塾と松浦亀太郎の誕生地、吉田稔麿、伊藤博文の旧宅はとても近い距離にある事が分かります。

 

この距離感を見ると、松下村塾は本当に近所の人が集まる小さな私塾だったのだという事が良く分かります。

しかし、その亀太郎は生きて明治を迎えることはありませんでした。

 

亀太郎は久坂玄瑞や前原一誠が長州藩士の長井雅楽の暗殺計画を立てるとこれに賛同し京都に上ります。

 

関連記事⇒長井雅楽の唱えた航海遠略論と久坂玄瑞との対立!!

 

しかし、他の仲間から暗殺の無謀さを説かれ翻意を促されると、割腹して人生の最期を迎えています。

計画を実行に移すのは難しい、しかし自分は決して死を恐れて計画を実行しなかったのではない。

 

そういう意思を表すための行動だったのかもしれません。

松浦亀太郎は松陰亡き後の松下村塾の塾生の中で、一番最初に命を落とした人物となってしまいます。

 

超貴重 亀太郎の絵

松浦松洞は魚屋の息子でしたが、取引先の家の主人に頼まれて、その家のふすまに絵を描いたことがあったそうです。

そして松洞が描いた絵の現物がこれ。

 

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所有者の方に許可をもらって撮影させて頂きました。

 

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ふすまの左上には『松浦松洞』の名が入っています。

これはふすまがあった民家を壊す時に運び出されたものだそうです。

 

普通の民家にこんなお宝が眠っているとは、もしかしたら萩の町にはいまだ日の目を見ない資料やお宝が眠っているのかもしれません。

現代に残るこういった遺品がもっと注目され、発見されるようになればいいですね。

 



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