蜂須賀小六はまたの名を正勝と呼ばれる羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)の与力。

直接的には織田信長の家臣でありながら、羽柴秀吉の下に派遣されている家臣といった感じです。

 

蜂須賀小六は秀吉の参謀として活躍。

黒田官兵衛、羽柴秀長らと共に秀吉の天下獲りを支えました。

 

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川並衆の頭領

蜂須賀正勝は「川並衆」と呼ばれる木曽川や長良川、揖斐川などの水運に関係する仕事で利益を上げていた集団の頭領でした。

 

Koroku

 

この川並衆はいってみれば、どの勢力にも属さない地元の有力者(土豪)で、武装して自分達の縄張りを守ったりもしていたようです。

この蜂須賀小六と川並衆は正確な時期は分かっていませんが、織田信長に仕えることになり、与力として羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)の下で活躍します。

 

一番有名なのは、水運を知り尽くした川並衆の力を借りて、秀吉が墨俣に一夜で城を築いたことではないでしょうか?

一夜で築いたというのは誇張があるかもしれませんが、川の上流で城の材料となる木材を組み立てておいて、それを筏(いかだ)にして川を下り、いっきに組み上げるという元祖プレハブ工法だと言われています。

 

秀吉にスカウトされて参謀になる

秀吉の元には竹中半兵衛、黒田官兵衛、羽柴秀長という有能な参謀がいましたが、小六も彼らと肩を並べ、秀吉の天下取りに欠かせない人物であったと言われています。

 

私のイメージでは、作戦の立案などは竹中半兵衛黒田官兵衛が行い、羽柴秀長と蜂須賀小六が調整や交渉を行っていたというイメージですかね?

 

年齢的にも小六がかなり上で、川並衆の頭領として部下をまとめていた事もあり、人間的な成熟度がかなり高かった人物だったのではないかと思います。

なので秀吉ファミリーの中でどっしりと構え、時には秀吉に意見するなど大人な調整役だったようです。

 

そして交渉や調略を得意としていて、あの一筋縄では行かない曲者、宇喜多直家の投降の折衝をしたり、備中高松城の戦いでは黒田官兵衛と共に安国寺恵瓊との交渉にも臨んでいます。

羽柴秀長と一緒で、あまり知名度は高くありませんが、秀吉の天下取りを支えた人物であることは間違いありません。

 

小六は早々に家督を息子の家政に譲り、秀吉の傍に一人の武将として仕え、61歳で亡くなります。

秀長と小六は秀吉よりも先に亡くなり、この2人の死が豊臣政権滅亡に拍車をかけたと言われています。

 

存在は目立ちませんがこの2人が豊臣政権にとっていかに重要な人物だったかということが良く分かりますね。

 

蜂須賀小六の子孫は美人女優?

そんな荒くれ者のイメージが強い蜂須賀小六の子孫が芸能界で活躍していらっしゃいます。

それが意外や意外、女優の釈由美子さん。

 

釈という苗字は小六の子孫が出家した時に名乗った苗字だそうです。

あまりにも正反対すぎるビジュアルにちょっと笑ってしまいましたが、天然ボケで有名な釈由美子さんには秀吉を支え続けた参謀の血が流れているんですね。

 

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