吉田松陰が開いた松下村塾には、松陰に負けず劣らずの優秀で個性的なメンバーが沢山いました。

中でも特に有名なのが、塾の双璧と評される高杉晋作と久坂玄瑞。

 

そこに入江九一と吉田稔麿を加えた四人で松下村塾四天王と言います。

 

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吉田稔麿

現在、吉田稔麿生誕の地という石碑が、松下村塾からすぐ近くの場所に建っています。

松下村塾や玉木文之進旧宅、吉田松陰誕生地は、それぞれ僅かな距離しか離れていないので、吉田稔麿は杉家にとって本当にご近所さんといった感じです。

 

そのため、吉田利麿は松陰の叔父、久保五郎左衛門が開いていた、二代目の松下村塾に通っていました(初代が玉木文之進で三代目が松陰)。

この時の松下村塾は、読み・書き・そろばんを教える寺子屋のようなもので、まさに私たちが思い浮かべる”塾”というイメージそのものでした。

 

そこには同じく近所に住んでいた伊藤利助(博文)も通っていて、稔麿と利助は常に成績上位を争っていたようです。

しかし、トータルで見ると稔麿の方が成績が良かったようで、伊藤博文は成績では稔麿に勝てなかったと語っています。

 

松陰の下で

吉田稔麿は高杉晋作、久坂玄瑞と並ぶ松下村塾四天王の1人。

長州藩の下級武士の出身でありながら真面目に学問に取り組み、頭も良かった稔麿は、松陰のお気に入りでした。

 

稔麿・晋作・玄瑞を指して「実甫(玄瑞)の才は縦横無尽なり。暢夫(晋作)は陽頑、無逸(稔麿)は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり。」と評しています。

稔麿は池田屋事件で命を落とすため、明治という世を見ることはありませんでしが、後年、品川弥次郎は「稔麿が存命なら総理大臣になっていただろう」と語っていることからも、その才能の高さがうかがえます。

 

稔麿が書いた塾生を表現した絵

そんな優秀な稔麿は人を見る眼もあったようです。

ある日、稔麿は山縣有朋の前で絵を描いて見せます。

 

絵には、

  • 裃をつけて座っている坊主
  • 鼻ぐりのない暴れ牛
  • 木刀
  • 棒きれ

が書かれていました。

 

「裃をつけて座っている坊主」は久坂玄瑞のことで、身分は医者(当時の医者は坊主頭が義務付けられている)だが廟堂に座らせれば立派な政治家。

 

「鼻ぐりのない暴れ牛」は高杉晋作で、駕御するのは難しい人物。

 

「木刀」は入江九一で、優秀ではあるがまだまだ木刀の段階。

 

「棒きれ」は、横で絵の説明を聞いていた山縣有朋。

 

を表現したものでした。

 

何ともユーモアに富んでいて、しっかりと的を射ている印象を受けます。

松下村塾の四天王にして秀才と称される吉田利麿に棒きれ扱いされた山縣はショックだったでしょうね(笑)

 

関連記事⇒松下村塾での吉田松陰の教えと四天王と呼ばれる塾生!!

 

稔麿が評価した塾生のその後

後に久坂玄瑞は尊王攘夷のリーダーとして活躍し、高杉晋作はこれまでの常識に捉われない機動力で時代を進めていきます。

 

入江九一は、日米修好通商条約に激怒した松陰が老中の暗殺を企てた際も、四天王がみな反対する中、松陰の意志を実現するために奔走する様し、「草莽崛起」をただ一人実現している者として松陰をいたく感動させています。

 

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そして、「棒きれ」と評されてしまった山縣有朋ですが、明治まで生き残り総理大臣を二回務めるなど明治政府へ多大なる影響力を発揮しています。

 

しかし、逝去により国葬が執り行われた際一般の参列者はほとんどなく、国民には不人気だったとも伝えられているので、稔麿の評価はあながち外れていないのかもしれません?

 

遊び心あるユニークな逸話ではありますが、稔麿の確かな人物評が見て取れます。

 

 

四天王の最期

吉田稔麿は池田屋事件で討ち死にし、久坂玄瑞と入江九一は禁門の変で自刃。

高杉晋作は慶応3年に肺結核により病死しました。

 

松下村塾の四天王はいずれも大政奉還を見ることなくこの世を去ります。

この四人が生きていたらまた違う明治維新になっていたのかもしれないと、気になるところです。

 

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