こんにちは、三日月です。
吉田松陰の主宰する松下村塾からは沢山の塾生が輩出されます。
その中で有名なのが、文の夫である久坂玄瑞や高杉晋作。
では、彼らは松下村塾で何を学び、何故歴史に名を残すまでになったのでしょうか?
今回は彼らが学んだ松下村塾について迫ってみたいと思います。
明治維新始まりの場所
今回ご紹介するのは花燃ゆの舞台でもあり、明治維新の始まりの場所となった松下村塾です。
萩には現在も当時のままの姿で松下村塾が残っているため、多くの観光客で賑わっています。
もともと松下村塾は吉田松陰が開いたものではなく、叔父の玉木文之進が創立したものでした。
松陰はこの松下村塾の名を受継ぐ形で、幕末から明治にかけて活躍する多くの逸材を育てていきます。
松下村塾の門下生(塾生)と四天王
松陰が松下村塾で塾生を指導したのは期間は実質2年半程度でした。
その期間に松陰の教えを受けたのは100人に満たないくらいだったと言われています。
その中で有名なのが、
で、この4人は松下村塾の四天王と言われています。
しかし、大きな役割や影響力を持ちながら、明治という新しい時代を見ることができた人物は1人もいませんでした。
その他にも総理大臣となる伊藤博文や山縣有朋、幕末から明治にかけて活躍する品川弥二郎、野村靖、山田顕義らがいます。
明治になって萩の乱を起こした前原一誠も松下村塾で松陰の教えを受けた塾生でした。
松下村塾の中に門下生の写真が飾ってあるのですが、その中には桂小五郎(木戸孝允)の写真があります。
ただ、実際に桂小五郎は松陰と面識はあったものの、松下村塾の塾生ではありません。
「お~い龍馬」などの漫画でも、松下村塾の塾生のように描かれているので、勘違いしている人も多いと思います。
これはちょっと紛らわしいですよね。
(桂小五郎も明倫館で松陰の教えを受けていたので教え子であることに変わりはありませんが・・・。)
ただ、桂小五郎が塾生でなかったにしても、そうそうたるメンバーだと言う事は分かると思います。
関連記事⇒木戸孝允(桂小五郎)ってどんな人?吉田松陰との関係や最期の様子を紹介!
松下村塾の教え
松下村塾は身分に関係なく希望する人は誰でも入塾できました。
そのため、一時は教室に入りきらないほどの生徒が集ったと言われています。
松下村塾では武士としての心構えや、兵法を教えたり、一緒に農作業をしたりすることもあったようです。
そして、何よりも本を読むことを重要視していたと言います。
現代でもそうですが、当時は特に書物からしか深い知識を得る事ができなかった時代なので、本を読む人と読まない人の知識量の差はかなりのものがあったと思われます。
やっぱり人間の基礎を作ろうと思ったら、いつの時代も、しっかりと勉強(学校の勉強という意味ではなく)しないとダメですね(汗)。
その他にも、松陰自身も読んでいた孟子などの儒教の思想も取り入れられている事から、様々な分野の書物から優れた部分を取り入れ、総合網羅的に武士としての心構えを育てていったのだと思います。
そして、学んだ知識はそれだけでは何の役にも立たず、行動に移してこそ初めて価値があるという、実践に重きを置いた教えでした。
こんな塾が現代にあるのならこの根性を叩き直すために、学んでみたいと心の底から思います。
松下村塾の写真
ここまで松下村塾の教えや門下生についてご紹介してきましたが、画像(写真)があったほうが分かりやすいと思うので、実際に私が松下村塾を訪れた際の写真で雰囲気だけでも感じ取ってもらえればと思います。
まず建物の外観。
よく雑誌などにも載っている角度なので、見たことがある人も多いと思います。
実際に授業をしていた講義室です。
広さは8畳程度ですかね。
建物の中には松陰が安政の大獄で処刑されたときに塾生がつけたとされる刀傷が柱に残っているという話を、修学旅行の時のガイドさんが言っていました。
松下村塾の入口。
左側は控えの間と呼ばれる部屋。
ここに門下生(塾生)の写真が飾ってあります。
松陰神社の境内にある松陰の実家(杉家の旧宅)。
左側の小さな3畳半のスペースが密航に失敗した松陰が幽閉されていた部屋。
ここで松陰は近親者に講義を開いていました。 松下村塾での講義が開催されるまでの1年半はこの3畳半の空間が講義場だったことになります。
まさに松陰の松下村塾の原点となる場所です。
写真では伝わりにくいですが、実際に松下村塾に訪れると、周辺の空気が違うというか、独特のオーラがあり、何か感じるものがあると思います。
個人的には是非、訪れてみてほしい場所です。