倒幕や明治維新で活躍した長州藩士。

その中心的な人物が師と仰いでいたのが吉田松陰です。

 

長州を維新へと向かわせたのは吉田松陰とは、どういった人物だったのでしょうか?

今回は、吉田松陰の性格や功績、語り継がれる逸話などについてみていきましょう。

 

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吉田松陰の人生を簡単に解説

吉田松陰(1830~1859)は長州藩の武士で兵学者です。

生まれは杉家ですが幼少のころに叔父で山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となりました。

 

叔父と同じく兵学を修めて山鹿流兵学師範となり、その後は長沼流の兵学師範も修めるなど兵学の道を極めていきました。

 

しかし、清(中国)がイギリスに大敗北を喫したとしるや、松陰は、両兵学ともに時代遅れであると悟りました。

そこで西洋兵学の知識が必要と感じ九州や江戸へ遊学し、佐久間象山ら一級の兵学者から教えを受けます。

 

転機となったのは、それから程なくのこと。

ペリー率いる東インド艦隊が浦賀にやってきました。

 

艦隊の巨大さと迫力に松陰は、西洋技術の先進性を身をもって実感し感銘を受けました。

そして留学を決意します。

 

留学を決意した松陰は同郷の友人で足軽の金子重之助とともに長崎へ行きロシア軍艦に乗り込む計画を練り実行に移しました。しかし、そのロシア軍艦は事情あって既に出港しており計画は頓挫してしまいました。

 

翌年、再来航を果たしたペリー艦隊の艦船で密航を企てた松陰と重之助は小舟で近づき乗り込みには成功しましたが渡航は拒否されたため、やむなく諦めるしかありませんでした。

さらに乗っていた小舟が流されたため奉行所に自首の後、投獄されてしまいました。その後、国許蟄居の処分となり、長州藩内で投獄されました。

 

出獄後は叔父がやっていた松下村塾を引継ぎ後進の育成にあたりました。この塾から後の世を作っていく人材が多く生まれます。

 

そんな中、幕府が勅許なしにアメリカとの間で条約を結んだという知らせが届くと松陰は怒り狂いました。

「天皇の勅許を待たずして幕府独断で異国と条約を結ぶとは何事か」と、怒りが治まらない松陰はついに老中暗殺を口にするようになりました。

 

さらに幕府が日本の独立の障害になっているとして藩に武器や弾薬を要請しましたが、藩が受け入れるはずもなく、要注意人物とされ再び投獄されてしまいました。

さらに江戸へ護送され投獄ののち斬首刑の処分となり、短い人生を終えました。

 

松陰の逸話

友との約束を守るため脱藩

松陰はとても義理堅い性格。

交流のあった肥後藩士の宮部鼎蔵と東北遊学の約束をしていた松陰は、藩から出される通行手形が出発の日に間に合わないからと脱藩してしまいました。

 

当時、脱藩というのは重罪。

しかし松陰にとっては、罪を犯す事より友との約束を果たすことの方が重要だったようです。

 

松下村塾の授業内容とは?

叔父が始め、松陰が引き継いだ松下村塾は高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一に伊藤博文といった面々が在籍していました。

ここで行っていた授業は、いわゆる先生が生徒に教えるという一方的なものではなく、どういう意見なのかを聞いたり話したりといった討論のようなものでした。

 

同じ目線で日本の将来を語り合うという授業スタイルで、生徒たちは自分の頭で考えて行動するというるという力を身につけていきます。

 

弟子もお手上げの松陰の過激思想

勅許がないまま条約調印を強行した幕府に怒った松陰は老中暗殺を決意しました。

この決意に驚いた高杉晋作や久坂玄瑞ら弟子たちは松陰に自重や決意の取り下げを求めました。

 

すると松陰は、「君たちには失望した」と絶縁宣言。

弟子たちも松陰の過激な思想に困らされてしまします。

 

結局この計画が実行されることはありませんでしたが、この思想が後に幕府に伝わってしまい、松陰は命を落とすことになってしまいます。

 

死罪ではなかった?安政の大獄での松陰の量刑

江戸の評定所に出頭した松陰は、幕府の役人から面識のあった儒学者の梅田雲浜との関係について問われました。

松陰の嫌疑は雲浜との関係性について怪しいところがないかということでした。

松陰が長州に赴いた際の雲浜との会話の内容を説明すると役人は嫌疑が晴れたとして松陰を無罪放免としました。

 

これに立腹した松陰は何を思ったか聞かれてもいないのに、自ら進んで老中の暗殺計画や攘夷の実行などを告白してしまいます。

 

突然の告白に驚いた役人は、松陰を危険人物とみなし遠流の処分を決定しました。

この決定に大老・井伊直弼が事態を重く見て刑を引き上げたため松陰は斬首の刑に処せられました。

 

松陰の死を知った長州藩首脳の反応

長州に幕府から松陰の刑が執行されたことが知れされると藩首脳は執行やむなしという結論にいたりました。

短い生涯を革命に生きた松陰の思想は、その後、弟子たちに引き継がれていくこととなります。

 

魂の遺書=留魂録

最期の時を前に吉田松陰が書き残した魂の遺書・留魂録。

この留魂録を確実に萩で待つ塾生の元に届けたかった松陰は、2冊の留魂録を作り、1冊を伝馬町の牢屋敷で一緒だった沼崎吉五郎に託します。

 

この沼崎吉五郎が受け取った留魂録は現存していて、萩の松陰神社で見ることができます。

 

詳細記事⇒吉田松陰が沼崎吉五郎に託した遺書『留魂録』!!

 

吉田松陰の最期

当時現場にいた関係者たちの証言から分かる伝馬町の牢屋敷での吉田松陰の最後の様子。

吉田松陰の覚悟は幕府の役人をも感嘆させます。

 

詳細記事⇒【号泣必至】吉田松陰の最期の様子と辞世の句!!

 

両親の夢

吉田松陰が最期の時を迎えたまさにその時。

松陰は父・百合之助と母・滝に夢の中で別れを告げます。

 

これは作り話ではなく、2人が証言した本当の話です。

 

詳細記事⇒吉田松陰が処刑された時の父・百合之助と母・滝の夢!!

 

松陰の妹が語る松陰の性格

明治時代になって松陰と一番年の近い妹・千代が兄・松陰について語った記事が残っています。

妹から見た吉田松陰の性格とは?

 

詳細記事⇒明治になって文の姉・千代が語った兄・吉田松陰の逸話!!

 



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