山中鹿之助は今の島根県を治める戦国大名であった尼子晴久の家臣。

尼子家が衰退していく中でも主家を裏切ることなく、最後まで打倒毛利、尼子家再興のために尽くした人物でした。

 

尼子家が滅んでからは、織田信長の援助を受けて兵を挙げ、毛利家の枢軸である吉川元春や小早川隆景を大いに悩ませます。

 

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タイマン最強!一騎打ちでの戦功多数!

山中鹿之助を語る時に外せないのが数多くの武功。

その中でも一騎打ちで多くの武将に打ち勝っている事で有名です。

 

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今回はその中でも最も有名な品川大膳との一騎打ちを「雲陽軍実記」を参考にご紹介します。

毛利元就が尼子義久の居城 月山富田城を攻めた時の毛利軍の中に品川大膳という武将がいました。

 

大膳は尼子家で名の知れた山中鹿之助を討ち、武名を上げる事を目標として自らの名前を鹿に勝つという意味をこめて「狼之介(おおかみのすけ)」と名乗るほどの熱の入れよう。

 

何とか目立って自分の武功をアピールしようという考えが伝わってきますね。

 

そんな大膳が富田城下で山中鹿之助を見つけ一騎打ちを申し込みます。

これに鹿之助も了承し、富田川の中州にあった川中島で相対します。

 

最初、大膳は弓矢を構えて鹿之助を狙っていたようですが、さすがに見守っていた尼子勢から「飛び道具とは卑怯だ!!」と大クレーム。

尼子十勇士の一人である秋上伊織介が雁股の矢で大膳の弓の弦を切ったと言われています。

 

これが本当なら弓矢で弓の弦を切った伊織介が一番凄いような気がしますが・・・(笑)。

弓が使えなくなった大膳は太刀を抜いての勝負。

 

そこから組み合いになり、2人の武将の死闘が繰り広げられます。

そして大膳が鹿之助の上になり、止めを刺そうとしたところで、鹿之助が下から短刀で大膳を刺し、最後には首を取ったと言われています。

 

この戦いは2時間に及び、「鹿が狼に勝った。」という声に尼子勢の勝どきが上がったとされています。

 

山中鹿之助の人柄

山中鹿之助の最後の戦いとなる上月城の戦い。

これは織田信長の援助を受けた山中鹿之助が尼子勝久と共に上月城に籠もり、毛利軍と戦った戦です。

 

この時、毛利軍に包囲された上月城には羽柴秀吉の援軍が向かう予定でした。

しかし、突如三木城の別所長治が裏切ったため、秀吉は退路を断たれる危険性が生じ、上月城の援軍を中止し、三木城の攻略に向かうことになります。

 

これは織田信長の命令であったとされ、結果的に山中鹿之助達は羽柴秀吉から見捨てられることになります。

援軍のあてがなくなった上月城は降伏開城。

 

その時に山中鹿之助が共に戦った家臣に宛てて書いた手紙が残っています。

 

「長い放浪の末の今回の上月城の戦いでは凄まじい戦いぶりでした。この事は一生忘れません。これからは何処の家中でも自由に仕えて下さい。」

 

と家臣を思いやった手紙を残しています。

 

幕末から明治にかけて活躍した勝海舟や板垣退助も山中鹿之助をとても評価しているのですが、後世の人物に尊敬される所以は、武勇だけではなく、こういった気遣いの部分にもあるのかもしれません。

 

ちなみに、人気のゆるきゃら、ふなっしーの尊敬する人物も山中鹿之助だそうです(笑)。

 

上月城で捕らえられ最期を迎えた山中鹿之助ですが、その時にかぶっていたとされる冑が現存しているのですが、その冑の中には戦勝を願う護符(お守り)が貼られていました。

 

名言「我に七難八苦を~」の意味

三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と祈る鹿之助。

戦前の国語の教科書に載っていた話で、山中鹿之助と言えばこの名言が良く取り上げられます。

 

これは「苦労や困難をどんどん私に与えてください。」という意味。

何ともドSな名言です(笑)。

 

ただ、この『七難八苦を与え給え』と言う言葉は創作の可能性が高く、実際は「今日より三十日以内に、武功を上げさせてほしい」と三日月に願掛けをしたようです。

 

それから後、三日月に祈ったように見事一騎打ちで相手武将を討ち取る武功を上げ、その名を上げています。

実は尼子氏を攻め滅ぼした毛利元就も太陽や月に向かって祈るという習慣を持った武将でした。

 

打倒尼子と打倒毛利。

 

同時期に月に向かって祈られた2つの想いでしたが、最終的に山中鹿之助の祈りは届くことなく、尼子家は滅亡してしまいます。

 

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