松下村塾のメンバーは、尊王攘夷を掲げて時代の渦に果敢に挑みますが、明治という新しい世を見る前に命を落としてしまう者も大勢いました。

 

今回ご紹介する赤禰武人(あかねたけと)もその一人です。

(赤禰という字が難しいためか『赤根武人』と記されることもあります。)

 

赤禰武人は高杉晋作と仲が良かったとされ、晋作が作った奇兵隊の3代目の総督も務めています。

しかし、仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り、哀れな最期を迎えることになります。

 

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赤禰武人とは

赤禰武人は医者の息子に生まれ、19歳で吉田松陰の松下村塾に入門します。

実際に赤禰武人が塾に在籍した期間は2か月程度とされていますが、その間に高杉晋作らと深い親交を結んだようです。

 

やがて、京都に上り吉田松陰とも交流があった小浜藩の梅田雲浜が開いていた南望塾に入門。

松陰と雲浜という、2人の師の下で学んでいます。

 

安政の大獄で梅田雲浜が捕えられた時には一緒に投獄されてしまいますが、武人だけは釈放されています。

 

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松陰が亡くなってから、晋作が御楯組を結成するとそれに加盟し、英国公使館の焼き討ちには斬り捨て役として参加しています。

 

3代目の奇兵隊総督へ

その後、高杉晋作が作った奇兵隊に参加して、晋作が総督の座を辞めた後には、3代目の総督の座についています。

しかし、武人は奇兵隊の総督として戦った下関での四国連合艦隊との戦いで、日本と外国の軍事力の差を痛感し、攘夷に対する無謀さを思い知り総督を辞任。

 

総督の座を山縣狂介(有朋)に譲っています。

攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。

 

長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと考える赤禰武人。

戦を回避しするために長州藩内を動き回る武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。

 

武人は晋作達を裏切った訳ではなかったようですが、考え方の違いから晋作との間に溝ができ、やがて居場所を無くして長州を去ってしまいます。

 

 

赤根武人の最期

その後、幕府に捕らわれの身となった武人は、第2次長州征伐の報を聞くと、長州藩を滅亡させないために説得の使者として、新撰組の近藤勇らと共に萩へ向かいます。

しかし、この時も赤禰武人は幕府のスパイだと信頼してもらえず、結局萩に入ることはできず、故郷に潜伏しているところを捕縛され、長州藩に対して不義を働いたとして処刑されます。

 

この時、一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。

 

『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。

 

それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。

 

長州藩から裏切り者として扱われた武人に対する仕打ちは酷いもので、斬首の後に首は晒され、遺体は人通りの多い場所に埋められたとされています。

さらに遺体から内臓を引きずり出し鳥の餌にしたとも伝えられているので、この時の長州人の武人に対する憎しみは計り知れないほど大きかったようです。

 

たった1つのボタンの掛け違えで、英雄にも反逆者にもなってしまうこの時代。

今となっては武人の本心や真実は分かりませんが、武人と対立して不和になっていた高杉晋作も武人を救えなかったことを悔やんでいたとされています。

 

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