大日本帝国憲法を作った伊藤博文。
伊藤は貧しい百姓の長男として生まれ、幕末の動乱で活躍して初代内閣総理大臣にまで上り詰めます。
では、伊藤博文はどんな人物でどんな人生を歩んできたのでしょうか?
今回は松下村塾で吉田松陰に学び、桂小五郎や高杉晋作といった偉大な先輩に可愛がられた、伊藤博文について詳しく解説します。
伊藤博文ってどんな人? 簡単に解説!
伊藤博文は江戸時代の末(幕末)から明治時代にかけて活躍した政治家。
初代総理大臣で大日本帝国憲法を作った人物です。
幼名を利輔といい、成人後は俊輔、博文と名前を変えています。
長州藩(現在の山口県)の農民の家に生まれ、父が足軽である伊藤家の養子になったため、博文も足軽になりました。
そして、長州藩の有名な学者であり教育者であった吉田松陰が開く松下村塾に入り、勉学に励みます(家も松下村塾の近くだった)。
その後、長州藩がイギリスに送った留学生の一人として海外留学を経験。
戊辰戦争後は英語ができることが評価され明治政府の中で出世します。
留学の経験から日本の制度が外国に比べて遅れていると感じた伊藤は内閣制度を作り、初代内閣総理大臣になります。
そして、大日本帝国憲法の原案を取りまとめ、日清戦争では内閣総理大臣として、日露戦争では政府の中心人物として深くかかわります。
そして、早くから政党の必要性に気づいてい伊藤は立憲政友会を設立。
伊藤の死後、立憲政友会は政党政治の中心となっています。
日露戦争後は日本の勢力下にはいった朝鮮半島を統治する韓国統監に就任し、1909年、中国のハルビン駅に到着したところで韓国人の安重根によって暗殺されました。
若いころはかなりの無鉄砲
若いころ、伊藤は外国人を追い払う攘夷の思想を持っていました。
そのため、イギリス公使館の焼打ちや反対派の暗殺などかなり荒っぽいことに関わっていました。
そして、長州藩内部で幕府と戦うべきか意見が割れた時、戦うべきとして挙兵した高杉晋作のもとに一番に駆け付けています。
ちなみに幕末の風雲児として知られる高杉晋作は伊藤博文の兄貴分的存在。
松下村塾の頃から高杉の背中を見ていた伊藤の人格形成には高杉晋作の影響が大きいのではないかと思います。
↑高杉晋作と伊藤博文
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世界を知ったイギリス留学
伊藤は1863年に長州藩のイギリス留学生に選ばれロンドンへと渡りました。
そして、そこで目にしたのが最先端の海軍施設や工場。
イギリスと日本とのあまりにも大きな国力の差をまざまざと見せつけられた伊藤は、それまでの攘夷の(外国人を追い払うという)考え方を捨て、外国と積極的に交わる開国論者へと変わりました。
この時に、諸外国とまともに戦ったところで勝ち目がないと悟った訳です。
そして、留学中にイギリスなど四カ国が長州藩を攻撃することを知った伊藤らは急ぎ帰国。
戦争回避を目指しますが失敗に終わり、四カ国連合艦隊は下関の長州藩の砲台を徹底的に破壊します。
このとき伊藤は和平の使者となった高杉晋作の通訳として交渉に加わりました。
その後、開国論者になった伊藤は攘夷派から命を狙われるようになりますが、何度も暗殺の危機を乗り越え、明治時代まで生き残りました。
外国語がペラペラ?通訳としても活躍した伊藤博文
下関を占領した四カ国艦隊との交渉以外にも、外国関係のトラブルがあると伊藤は交渉人として手腕を発揮しました。
英語が上手だったことと留学経験があったことなどが政府の中で評価され出世していきます。
その後も、岩倉使節団の一員として欧米に渡ったり、憲法改正の調査としてヨーロッパ諸国に派遣されるなど、日清戦争・日露戦争で各国に働きかけを行うなど国際派として大活躍しました。
先輩にかわいがられる世渡り上手
伊藤は当時の有力者と太いつながりを持っていました。
最初は松下村塾の大先輩である高杉晋作、彼が挙兵(功山寺挙兵)するときに1番に駆け付けたことは彼の誇りだったようです。
次に同じく長州藩の木戸孝允、岩倉使節団で同行した岩倉具視や大久保利通など自分よりも各上の先輩たちと上手に歩調を合わせます。
その結果、彼は明治政府の中心人物へとのし上がっていく人脈を作り上げる事に成功しています。
お世話になった先輩・桂小五郎(木戸孝允)
松下村塾の門下生が革命化してゆくにつれ、伊藤も志士となりましたが、彼の身分では「志士」とはいえませんでした。
しかし他藩との交際上、「長州藩士」を名乗らねばなりません。
このとき、桂小五郎は伊藤のためにわざわざ長州藩に工作をし、自分の従士という形式にしました。
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その際に桂は伊藤にこう言っています。
「藩への届け出という意味では、私と君は主従ということになるが、それはあくまで形式で、君は私を同志と思ってもらいたい」
桂小五郎はれっきとした長州藩士なので、伊藤とは身分が違うのですが、これが長州の文化だったのでしょう。
こうした階級概念の後退が、高杉晋作率いる奇兵隊を成立させ、これに付随して伊藤は力士隊を率い、そして、これらの巨大な躍動感が徳川幕府を倒すまでに至ったのだと考えられます。
憲法制定の立役者
明治時代の中頃になると、外国との間に結ばれた不平等条約の改正が重要になっていきました。
そして条約改正のためには、日本が優れた国であることを証明して諸外国に交渉のテーブルについてもらう必要がありました。
そのためには外国同様の憲法を制定する必要があります。
そこで憲法制定の仕事を請け負ったのが、政府きっての外国通であり、明治天皇の信頼も厚かった伊藤博文です。
フランスやイギリス、ドイツ、オーストリアなどを回った結果、伊藤は今の日本に近い仕組みを持つドイツ(プロイセン)の憲法が実情に合っていると判断します。
1889年に制定された大日本帝国憲法はドイツ流の憲法で、明治維新で天皇中心の国を作るとした尊王論を踏まえたものです。
そして、それと同時に日本にも将来はイギリスやフランスなどのような議会を中心とした政治が必要となるとも感じていたようです。
憲法を作って十数年後には立憲政友会という政党を自ら立ち上げます。
伊藤のこの読みはやがて現実のものとなり、大正デモクラシーへとつながりました。
伊藤博文の男気エピソード
幕末・戊辰戦争を生き抜いてきた人々は、明治時代に大きな尊敬を受ける存在でした。
明日どうなっているかわからない時代を生き抜いた人々独特の強さがあったからでしょう。
1905年、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結されました。
この時、全権代表として会議に出席した小村寿太郎に対して伊藤は「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」といいました。
大国ロシアとの交渉で、賠償金をとることは難しく、国民が小村を批判するだろうことを予測してのことです。
帰国した小村は新聞でも強烈に批判され民衆の怒りにさらされますが、伊藤は約束通り小村をかばっています。
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無類の女好きで有名
伊藤博文は明治時代きっての女好きとして知られています。
最初の妻と結婚している最中に芸者と浮気をして子供を作ってしまいました。
妻は怒って離婚。
すると、かわってその芸者さんと結婚します。
しかし、これで浮気が収まるわけではなく、料理屋の娘や華族の令嬢、各地の芸者など浮気を繰り返しました。
伊藤が暗殺されたとき、新聞の風刺画に撃たれた伊藤の影が「女」という字で描かれたほどでした。
伊藤博文の最期!ハルビンで安重根に暗殺される
伊藤は1905年に韓国統監に任命されます。
当初、伊藤は韓国を日本の植民地とすることに消極的であったようですが、のちに考え方を変え、韓国併合に反対しなくなりました。
そのため、統監として韓国併合を推し進めたとして韓国人の反感を買い、ハルビン駅で安重根によって暗殺されます。
安重根の放った銃弾は3発が伊藤に命中。
しばらくは会話ができる状態でしたが、そのまま息を引き取ります。
日本では伊藤の国葬が営まれています。
吉田松陰が下した伊藤博文への評価
伊藤博文は低い身分の出身でした。
彼の父親は百姓でしたが、萩城下にきて足軽よりも身分の低い中間(ちゅうげん)の雇われ人となりました。
萩に引っ越した伊藤は16歳の頃、隣の家に住んでいた吉田稔麿に誘われて松下村塾に入門しました。
松下村塾には約1年在籍しており、ときどき吉田松陰の指示で九州へ使いに行っています。
あるとき松陰は伊藤のことを九州の同志に、
「この生は、伊藤利助と称する者なり、小役人の末役なれど、かえって好んで吾が徒に従いて遊ぶ。才劣り、学幼きも」
と紹介しています。
そしてこうも言っています。
「質直にして華なし。僕、すこぶるこれを愛す」
吉田松陰はほめ上手で有名ですが、伊藤博文に対しては素朴で浮ついたところがない、という程度くらいしかほめようがなかったようです。
このころは、彼はあまり可愛気がなかったのかもしれません。
しかし松陰は、博文を見捨てていたわけではなく、久坂玄瑞が長州を離れて他所にいたとき、久坂宛へ「利助、また進む」とその心境を述べ、「なかなかの政治家になりそうだ」と書き添えています。
新渡戸稲造に語った吉田松陰
明治政府の元勲となった後年、新渡戸稲造から吉田松陰について質問されたとき、伊藤は次のように答えています。
「世の中では我が輩が吉田松陰の塾に長くおったようにして、松陰の弟子のように言っておる者もあるが、それは事実上間違いであって、我が輩はあまり松陰の世話になっていない。実際、当人に会ったこともたびたびはない」
伊藤博文はもちろん松陰にしばしば会っているのですが、松陰という存在はあまり興奮をもって語らねばならぬほどの師ではなかったようです。
しかし、伊藤ほど、松下村塾から計り知れないほどの恩恵にあずかった人間はいません。
桂小五郎(木戸孝充)を除いては、松下村塾の門下生が長州藩を牛耳ることになり、明治政府が成立してからは政府の巨頭として国家に君臨することになったのです。
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