長井雅楽(うた)は長州藩でも秀才とされた人物。
大江広元の子孫、つまり主家の毛利家と同じ先祖をもつ長井家は超名門の血筋を受け継いでいる事になります。
そしてこの長井雅楽が唱えたのが有名な航海遠略策と言われるものです。
航海遠略策とは
外国を追い払うという”攘夷”という考えが広まる中、徳川幕府の大老・井伊直弼は天皇の許しを得ずに、独断でアメリカとの通商条約を結びます。
この行動は海外の脅威に屈し、不平等条約を結んだ弱腰外交として、さらに攘夷運動を加速させることになります。
時の天皇、孝明天皇も攘夷思想を持っていて、今からでも条約を破棄して外国人を追い払えという考えだったと言われています。
そんな時に長井雅楽が唱えたのが航海遠略策。
内容を簡単に説明すると、
条約に調印して開国したのに、今さら条約破棄をするというのは道理に反する。
航海術に長けている外国と争っても利益がない。
それならば、一度開国をして海外と交易をして国力を高めることが先決ではないか?
朝廷は攘夷の考えを改めて、海外との交易で国力を高めるように幕府に命じるべき。
といった感じになります。
つまり、外国人を追い払うのではなく、開国して貿易をし、強い日本を作って、海外と対等に渡り合えるようにするべきだという考えです。
長州藩ではこの長井雅楽の案を藩論として掲げ、幕府や朝廷に対して発言力を強めていきます。
久坂玄瑞の猛反対
しかし長州藩内ではこの長井雅楽の航海遠略論に反対する集団がありました。
それが桂小五郎や久坂玄瑞、周布政之助ら尊王攘夷派です。
その中でも特に反対の声を強めたのが久坂玄瑞。
久坂は公家と連携をとって、航海遠略論は朝廷を誹謗し、幕府を擁護するものだと主張して長井雅楽を失脚させます。
藩論とされていた航海遠略論に猛反発するだけでなく、久坂は長井の暗殺を計画したこともありました。
そこには師である吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られる時に、松陰を救おうとしなかった長井に対する遺恨があったとされています。
失脚した長井は、やがて毛利敬親から切腹を言い渡されます。
長井雅楽の最期
長井雅楽が最期の時に読んだ辞世とされるのが下記の歌です。
- 君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国のゆくすえ
- ぬれ衣の かかるうき身は 数ならで 唯思わるる 国の行末
この二首を読むと、いかに長井雅楽という人物が日本の事を思っていたのかが分かります。
やりきれない無念の気持ちからか、切腹の際は介錯を断って果てたと言われています。
航海遠略論はとても理にかなった政策で、開国して日本を強くする必要があるというのは、吉田松陰の考えとも同じです。
では何故、こんな立派な考えを示しながらも永井雅楽は切腹をすることになったのか?
それは、永井に恨みを持つ久坂玄瑞ら松下村塾の攘夷派との政治の主権争いに敗れたからだと言わざるを得ません。
松陰と攘夷に対する考え方(姿勢)で対立していたこともあり、その事で松下村塾の塾生からの反感を買っていたのだとしたら、松陰との対立が長井の政治人生を変えてしまったという事になります。
実は優秀な政策
高杉晋作や久坂玄瑞が掲げた攘夷思想。
幕末は、この外国人を打ち払う攘夷という考えが一種の流行になっていたように思います。
しかし、実際に外国と戦争をして勝てるだけの力というのは当時の日本にはありませんし、久坂玄瑞も攘夷が無謀であるという事はある程度理解していたようです。
そうすると、攘夷という思想の元になっていたのは、外国人の思うようにさせたくないという、日本人の意地のようなものだったのかもしれません。
それは下関戦争などで攘夷の無謀さを思い知らされてから、幕府を倒すという流れに至り、明治政府ができてからは欧米列強の文化を取り入れる政策を進めたことからも分かります。
つまり、航海遠略策は時代に渦に巻き込まれて消えてはしまいましたが、日本がとるべき唯一の手段であり、長井雅楽の唱えたことは正しかったという事になります。
長井雅楽や吉田松陰の、『まずは諸外国と交易をして強い日本を作ることが必要』という考え方が、いかに大局から物事を見た優れた考え方であったかという事が分かります。