木戸孝允は幕末から明治にかけて活躍した政治家。

明治維新では長州藩を代表して活躍したことから明治維新で大活躍した3人という意味の維新三傑に数えられています

 

幕末は桂小五郎と名乗っていたので、この名前で覚えている人も多いと思います。

では、木戸孝允は具体的に何をした人なのでしょうか?

 

主な功績をピックアップするとこんな感じです。

 

  • 長州藩のリーダー的存在として高杉晋作や伊藤博文を引っ張る。
  • 西郷隆盛と会談をして薩長同盟を結ぶ。
  • 明治維新の後は政府の中心的な存在となって政策をすすめる。
  • 岩倉使節団としてアメリカやヨーロッパを視察する。
  • 五箇条の御誓文を完成させて提出する。

 

今回は木戸孝允について詳しく解説していきます。

 

 

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木戸孝允(桂小五郎)の功績を簡単に解説

桂小五郎は長州藩出身の武士で政治家です。

 

もともと体の弱かった小五郎は内藤作兵衛の道場に入門。

その努力が認められ私費ながら江戸での剣術修行を許され、江戸へ旅立ちました。

 

江戸では練兵館で剣術に打ち込み、わずか1年で塾頭になるまでに成長していきます。

その後、藩命で長州に戻るまで5年にわたって塾頭を務めました。

 

その剣術の腕は確かだったようで、あの新選組局長の近藤勇が「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言ったという逸話があります。

 

帰藩した小五郎は藩中枢に昇格。

長州藩のもう一人の有力者である高杉晋作とともに長州藩の意見を倒幕へと導きます。

 

その後、坂本龍馬の仲介を受け入れて薩長同盟を結びます。

 

新政府ができると長州藩の代表として五箇条の御誓文・版籍奉還・廃藩置県などで中心的役割を果たしました。

1871年には岩倉使節団の一員として欧米を回り国内優先の考え方を持ちました。

 

そのため、西郷らが唱えた征韓論や海外への出兵となる台湾出兵に反対し、台湾出兵後に政府を去りました。

1875年の大阪会議で政府に復帰しますが、健康がすぐれず1877年に病死します。

 

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木戸孝允の年表

1833年 長州藩の城下町の萩市の和田家に生まれる

1840年 桂家に養子に出される

1849年 藩校の明倫館で吉田松陰の教えを受ける

1853年 江戸の剣術道場である練兵館の塾頭となる

1866年 薩長同盟を結ぶ

1868年 五箇条の御誓文を出す

1871年 版籍奉還を行い、岩倉使節団に参加

1874年 台湾出兵に反対し下野、翌年復帰

1877年 西南戦争中に病死

 

木戸孝允と吉田松陰の関係

木戸は藩校の明倫館で吉田松陰の教えを受けています。

明倫館に通っていた時に吉田松陰が講師として教鞭をとっていて、木戸は生徒としてその講義を聞いています。

 

ただ、木戸孝允は松陰の主宰していた松下村塾には通っていません。

吉田松陰も木戸孝允のことを「親友」と呼んでいるので、この2人は師弟関係というよりも、同志という意識の方が強かったのかもしれません。

 

木戸は吉田松陰がひそかに海外に渡航しようとした時、それを助けようとします。

しかし、木戸に危害が及ぶことを心配した吉田はそれを堅く止めました。

 

その結果、吉田がつかまった時、木戸は処罰を免れたという逸話もあります。

 

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木戸孝允と高杉晋作の関係

木戸孝允は長州藩が京都に攻め上った禁門の変で敗北すると、容疑者の一人として幕府から指名手配されます。

この時、長州藩は幕府に従う政権が成立していて木戸は長州藩に帰ることができずに但馬に脱出。

 

そこで潜伏生活を送ります。

 

のちに高杉晋作がクーデタをおこし、幕府に従う人々を倒して実権を握ると、高杉は自分に変わって政治を取り仕切ってくれる人を探します。

そこで頼りにしたのが、自分の師である吉田松陰が高く評価していた木戸孝允でした。

 

木戸は高杉にとって良き兄貴分。

こうして、長州藩の政治を木戸が、軍事を高杉が担うことになります。

 

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変名を繰り返したお尋ね者 桂小五郎⇄木戸孝允

冒頭にもお伝えしましたが、木戸孝允のもともとの名前は桂小五郎です。

 

彼は京都で倒幕派の人々と連絡を取り合い活動していました。

幕府からは要注意人物とされ、何度も命を狙われます。

 

木戸は神道無念流という剣術の免許皆伝の腕前でしたが、剣の腕が一流であってもこれでは命がいくつあっても足りません。

そこで10以上の変名を使い分けて活動したといわれています。

 

禁門の変の後、幕府は桂小五郎と高杉晋作を探そうとしますが藩は二人が死亡したと答え、そのように処理されました。

そして、木戸が復帰した後、長州藩主の毛利敬親が木戸という姓を与えています。

 

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池田屋事件で逃げ延びてついたあだ名が「逃げの小五郎」

明治維新後、木戸は「今までで一番危険だったのはどのときか?」との問いに対して、「池田屋事件の時が一番危なかった」と答えています。

この時は剣豪集団の新撰組が相手の戦いで、木戸自身も屋根を伝って脱出したといわれます。

 

新撰組はまさしく大魚を逸してしまった感じですね。

 

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幕末のイケメン!?木戸の外見や特徴

木戸孝允は当時としてはかなり大きめの五尺八寸(174㎝)です。

体格がよく、剣術の腕も一流。

 

頭の回転も良い万能タイプの志士でした。

残された写真をみても、そのイケメン度合いが良く分かります。

 

ちなみに木戸孝允はお医者さんの家に生まれたおぼっちゃまです。

 

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もともと武士の家系ではなかった?

小五郎の父・和田昌景は、長州藩の藩医でした。

そのため小五郎も将来は藩医となるはずでした。

 

しかし、小五郎は7歳のときに長州藩士の桂家に養子に出されたため武士の身分となっています。

 

芸妓・幾松との出会い

京に滞在していた小五郎は芸妓幾松のことを大変気に入り贔屓にしていました。

そして幾松も小五郎が幕府から狙われていると知ると、彼を庇護し、必死に支えています。

 

小五郎は乞食に変装して橋の下に身を潜めていた時期があります。

その時も小五郎のもとに幾松が握り飯を届けたという逸話は有名です。

 

小五郎が辛い時期を一緒に過ごした幾松は明治になって小五郎と結婚。

名前も「木戸松子」と名を改めています。

 

木戸孝允の飲み相手は意外な人物

長州を代表する大酒飲みで知られる木戸孝允。

彼は意外な人物と飲み友達でした。

 

それは、幕末の土佐藩を主導して大政奉還の建白を行った山内容堂です。

彼とは維新後に酒を通じて意気投合し、何度か飲み交わしていました。

 

あるとき酒豪の容堂と明治天皇の御前で酒肴を賜り、飲みながら話し込んで大酔いしてしまい、

数十杯飲み重ね前後不覚になったという逸話も残っています。

 

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明治維新後の木戸孝允

明治維新がなって五箇条の御誓文や版籍奉還・廃藩置県といった大改革が終わると、木戸は政府内部の主導権争いから少しずつ距離を取ります。

岩倉使節団の帰国後は、憲法や三権分立の必要性を強く主張し、西郷隆盛らの征韓論に対しては反対しました。

 

また、大久保利通に権力が集中しすぎることにも反対し、最終的には政府を去ってしまいます。

 

木戸孝允の最期の様子

西南戦争中の1877年、京都に出張する明治天皇とともに木戸も京都にいました。

そのさなか、かねてから体調不良だった木戸の容体が悪化します。

 

明治天皇の見舞いを受けますが、その後回復することはなく、5月26日に死去します。

この時、西南戦争を起こして新政府に敵対する西郷に対して「西郷、いいかげんにせんか・・・」と言い残したといいます。

享年45でした。

 

彼の遺体は多くの同志たちが眠る京都霊山護国神社に眠ります。

この神社には久坂玄瑞、高杉晋作ら木戸と縁が深い人々もまつられていて、山口市糸米にある木戸の旧宅は木戸神社となっています。

 

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