高杉晋作という人物をを語る時に登場する女性の名前として愛人(妾)であるおうのと、晋作を陰で支えた野村望東尼が出てきます。

しかし、晋作には雅(まさ)という正式な妻がいて、子供も授かっています。

 

何故か本妻である雅より、愛人のおうのや野村望東尼のほうが有名ですが、この3人は晋作にとってどういう存在だったのでしょう?

今回は雅とおうのの関係に迫ってみたいと思います。

 

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晋作の妻 雅

高杉晋作は30歳まで結婚はしないと豪語していたとされています。

しかし、22歳の時に結婚したのが長州藩士である井上平右衛門の次女である雅(まさ)でした。

 

井上家は500石の知行を得ていた家柄で、200石の高杉家よりも家柄は上でした。

つまり雅は晋作から見ると、いいところのお嬢様といった感じです。

 

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さらに雅は防長一の美人と言われていた女性で、この結婚は晋作の父・小忠太の薦めが大きかったとされています。

結婚時、雅は16歳でしたが、実際に一緒に暮らした期間は1年程度しかなく、各地を飛び回っていた晋作とは手紙のやり取りが主だったようです。

 

愛人おうの

一方、愛人であるおうのとは晋作が24歳の時に出会ったとされています。

おうのは雅の2つ年上の女性で芸妓をしていました。

 

そのおうのを気に入った高杉が身請けをして一緒に暮らし始めています。

 

確かに、家柄も含めて周囲に半ば強引に決められる結婚は恋愛感情があっての事ではないので、自分の気に入った人がいれば妾としてでも一緒にいたいという気持ちは分かります。

 

現代に置き換えると、妻=家庭全般の事を任せるパートナー、妾=恋人という感じでしょうか?

 

 

雅とおうのの女の戦い

幕末の価値観は現代とは違っているので、一概には言えませんが、それでもやはり女の戦いはあったようです。

晋作が下関でおうのと一緒に暮らしている時に、雅が晋作との間にできた子供・梅之進を連れて訪れたことがありました。

 

その時におうのと雅は対面しているのですが、この時は『気まずくて困った』というような愚痴を晋作は手紙で桂小五郎にこぼしています(笑)

取っ組み合いが始まる事はないでしょうが、晋作も疲れ果てるような、静かで高度な女の神経戦が行われていたのではないかと思います。

 

晋作の最期の時には父である小忠太と雅、梅之進が看病に訪れていたため、おうのは晋作の傍にいることができなかったとされています。

 

晋作亡き後

高杉晋作が結核で最期を迎えると、おうのは剃髪して晋作の菩提を弔います。

その時に名乗ったのは梅処尼(ばいしょに)。

 

これは晋作が梅の花を愛した事から梅の名前を入れたものでした。

晋作の墓所は遺言通り、奇兵隊の本拠地に近い吉田に建てられ、そのお墓をおうのが守っていく事になります。

 

そして、後に伊藤博文や山縣有朋が援助してその地に建てた建物が今の東行庵となっています。

本妻である雅より、愛人であるおうのの方が有名なのは、晋作のために仏門に入り、生涯晋作の墓を守り続けたというところにありそうです。

 

野村望東尼

もう一人の女性、野村望東尼は晋作を陰から支え援助してきた女性として有名です。

野村望東尼が知られれるのは何と言っても、高杉晋作の辞世の句と言われる歌の下の句を読んだことです。

 

晋作の辞世に関しては下記の記事を参考にしてみて下さい。

 

関連記事⇒高杉晋作の名言・辞世の句と言われる歌の続きと意味!!

 

まとめ

妻、愛人、庇護者と立場はバラバラですが、高杉晋作が歴史に名を残した陰には、少なくともこの3人の女性の存在がありました。

現在の感覚で言えば本妻と愛人(妾)というのは仲が悪いイメージ(当たり前)ですが、おうのと雅は晋作亡き後も交流があったようです。

 

雅は東京に移って生活することになるのですが、おうのが雅の家を訪ねて行って雅の家に宿泊することもあったそうです。

おうのと雅は、初見の時はお互いに思うことがあったのかもしれません。

 

しかし、それ以降は意外に仲良くやっていたようですね。

 



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