伊藤博文は農民の出でありながら、松下村塾で吉田松陰に学び、初代内閣総理大臣にまで登りつめた人物。

幼いころから高杉晋作に鍛えられ、長州ファイブとして海外に渡るなど、厳しい環境の中で活動してきた伊藤博文は心身ともに鍛えられ、体力自慢の志士へと変貌を遂げていました。

 

明治政府ができてからは睡眠時間は4時間という中で激務をこなしていたようで、このあまりにも有り余る体力に、明治天皇が「病的なほどだ」と評したと伝わっています。

 

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女好きで有名な伊藤博文

伊藤の有り余る体力は仕事だけでなく女性にも向けられ、伊藤は大の女好き(芸者好き)として知られています。

あまりにも多くの女性と遊んでいたため、掃いて捨てるほどの女性がいるという意味で『箒(ほうき)』というあだ名を付けられていたくらいです。

 

明治維新が成った後、明治新政府内は大久保利通が筆頭にいたため、とても厳粛な雰囲気でした。

しかし大久保が亡くなり、伊藤がトップに立つようになってからは、女性も頻繁に出入りするような緊張感の無いものへと変っていったと言います。

 

そんな伊藤は、松下村塾の四天王に数えられる秀才であった入江九一と野村靖の妹であった入江すみと結婚しています。

 

野村靖と伊藤博文は同年代ですが、入江九一は伊藤より4歳年上。

 

さらに兄貴分である高杉晋作と肩を並べる松下村塾の四天王。

 

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直属の先輩の妹を妻に迎えたというわけです(笑)

普通であったら、九一や靖の手前、すみの事を大事にしそうなものですが、結果的に伊藤博文はすみと離婚しています。

 

その原因は伊藤博文の女好きが災いした、浮気が原因でした。

 

入江ふみとの離婚

大の女好きだった伊藤博文の女遊び(芸者遊び)は、すみと結婚している時にも止まる事はありませんでした。

その時に伊藤が出会ったのが、小梅と名乗っていた芸者で、後に梅子と名乗り伊藤博文の妻となる人物です。

 

伊藤博文と梅子は不倫関係にありましたが、2人の間に子供が出来てしまいます。

この時伊藤は、すみと離婚して梅子と再婚するという選択をしています。

 

伊藤とすみの結婚生活は3年程度続き、すみは伊藤と離婚した後は長州藩士と再婚しています。

 

 小梅から伊藤梅子へ

一方、伊藤博文の2人目の妻となった梅子は、伊藤を献身的に支えた人物として知られています。

梅子と結婚してからも伊藤博文の女遊びは顕在でしたが、伊藤が女遊びをしようが、家に芸者を連れ込もうが、何も口出しすることはなかったとされています。

 

そして、そんな状況でも伊藤との夫婦仲は良好で、梅子は4人の子供をもうけています。

私達からすると考えられない事ですが、当時の結婚や恋愛に対する価値観は現代とはかなり異なっていたようです。

 

初代総理大臣の妻ともなると、これぐらい器が大きくないと務まらなかったのかもしれません。

 

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明治天皇に叱られるほどの女好き

その他にも伊藤博文の女好きの逸話は沢山あり、鹿鳴館で行われているパーティーの最中に人妻を庭の木陰に連れ込んで・・・、芸者を馬車に乗せて馬車の中で・・・など、女好きエピソードは尽きることがありません。

 

また、伊藤博文は自分で「1000人の女性の相手をした」と豪語していたようで、女性関係を隠すこともなく、その手練手管を自慢していた節があるようです。

 

現代で言えば「俺は1000人斬りをしたぜ!!<(`^´)>ドヤ」といった遊び人みたいな感じです(ただ社会的地位は半端なく高い)。

 

また、大磯にあった別荘には芸者を何人か呼び寄せて生活をしていたそうです。

『英雄色を好む』とは伊藤博文のためにあるような言葉ですね。

 

そして、伊藤博文はこういった女性関係の話を隠そうともしなかったため、こういった話が明治天皇のお耳にも入り、「女性関係を慎むように!!」と明治天皇から注意されたこともあったようです。

 

並外れた気力と体力、そして女性関係を隠さない器の大きさ。

伊藤博文は足軽から内閣総理大臣に登りつめるだけあって、その中身も常人を超えた規格外のものであったようです。

 

伊藤の最初の妻である、入江すみも大変だったんでしょうね。

そして、女性関係を全て許容して伊藤博文を支え続けた梅子もすごいですね。

 

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