孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子で名前は統仁(おさひと)といいます。
1831年に生まれ15歳で皇位につき、1866年に急死するまで天皇の座に就いていたいた人物です。
後の明治天皇のお父さんでもあり、亡くなった時は35歳歳という若さでした。
この孝明天皇が皇位を継いだのが国の情勢が大きく動いた幕末。
では、孝明天皇はどんな人物でどのように幕末の動乱を乗り越えたのでしょうか?
今回は孝明天皇について解説します。
孝明天皇ってこんな人物!簡単に紹介
まず、孝明天皇はその生涯を通して根っからの「攘夷(じょうい)」論者でした。
攘夷とは「外敵を撃ちはらう」「外国人を排除する」という思想です。
孝明天皇が皇位を継いで程なくしていわゆる黒船襲来、ペリーがアメリカからやってきて開国を迫ります。
まさに孝明天皇からすると外敵がきた!排除しないと!という状況ですね。
ただし世の中には攘夷以外の考えの人もたくさんいました。
- そんなに外国人を敵扱いしなくてもいいんじゃない?
- 開国してもいいんじゃない?
と考える人達です。
この時代は幕府の上に天皇がいるという考え方なのですが、幕府の開国してもいいんじゃない?派の人達が天皇の許しを得ずに勝手にアメリカと条約を結んでしまいます(日米修好通商条約)。
これはイコール開国を意味するので、孝明天皇は「そんなことするんだったら自分は皇位から降りるぞ!」と非難したり違う考えの人達を粛清する(安政の大獄)ことに関わっていったりします。
ただ攘夷論者であると同時に幕府も好きだったので、あくまで幕藩体制下での攘夷実現をめざしていました。
そのために孝明天皇の異母妹である和宮内親王(かずのみやないしんのう)を将軍の徳川家茂に降嫁させます。
そしてこの家茂に、1863年の5月10日をもって攘夷を決行することを約束させました。
しかし、その3年後の12月に疱瘡(ほうそう)で急死します。
急死はまさかの毒殺!?孝明天皇暗殺説について
ちょっと恐ろしいお話を一つします。
実は孝明天皇は毒殺されてこの世を去ったんじゃないか!?という説が昔から議論されています。
なぜそんな話になるかというと、そもそも疱瘡とは天然痘のことで、普段御所にこもりきりの天皇がなぜ感染症である天然痘にかかったのかという疑問があります。
また毒殺だとすれば一部の人間にとって時代の流れとしてとてもタイミングが良い時期に亡くなっていること。
だいたいこの二つの観点から毒殺説が唱えられています。
まず1866年12月11日に孝明天皇は風邪をひき発熱したといわれています。
それ以後なかなか回復しなかったために、医師らのつきっきりの治療が行われました。
一度は快方に向かっていたもののその後、急変。
苦しみながら亡くなられたそうです。
しかし、孝明天皇はもともと悪い痔でであったこと以外は実に健康であったこと、一度快方に向かっていたというのに、急逝されたということによりヒ素による毒殺説が唱えられました。
黒幕には岩倉具視など朝廷内の倒幕派派による殺害が考えられていますが、証拠はありませんので真実は闇の中に葬られています。
最後の改元制天皇と逸話
現在は和暦(平成とか昭和)がころころ変わったりしませんよね?
変わる時は時の天皇がお亡くなりになられたときです。(今は限定的に譲位制度が確定しましたが)じつは孝明天皇は一世一元の制が制定される前の最後の天皇です。
その為在位中に何度か改元しています。
・弘化
代始の改元は、弘化5年2月28日(1848年4月1日)に行われ、元号は嘉永となりました。
・嘉永
次の安政は嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に黒船来航、安政の大地震、内裏炎上と続いたため、元号を安政と改元しました。
・安政
安政7年3月18日(1860年4月8日)に 江戸城の火災や桜田門外の変などの災異のため改元しました。
・万廷
万延2年2月19日(1861年3月29日)に 讖緯説(しんいせつ)に基づく辛酉革命の年に当たるため改元しました。この讖緯説とは古代中国の予言のことです。
・文久
文久4年2月20日(1864年3月27日)に 讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため改元しました。
・元治
元治2年4月7日(1865年5月1日)に 禁門の変や社会不安などの災異のために改元しました。
・慶応
弘化がお父さんの仁孝天皇の時代にもかかりますので計6回変更したことになりますね。