13代将軍・徳川家定の正室として知られる天璋院篤姫。

数えの21歳で将軍家に嫁入りしますが、わずか1年7か月足らずで家定が死去。

その後は幕府が倒れるまで大奥(将軍の妻や子どもが暮らすところ)を仕切りました。

 

そんな篤姫の人生は、どのようなものだったのでしょうか。

 

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貧しかった今和泉島津家から藩主の養女に

篤姫は島津家の分家である今和泉島津家の当主・忠剛の娘として生まれ、子供の頃は一子(かつこ)という名前でした。

今和泉島津家の本宅は現在の鹿児島市にありましたが、篤姫は現在の指宿市にあった別宅でも、兄の忠冬と遊んだりして過ごしていたといいます。

 

 

本宅の敷地は4600坪と非常に広いものでしたが、島津家の分家でありながら、その暮らしは大変貧しいものでした。

しかしそんな状況でも篤姫は温厚かつ忍耐力がある女性に育ち、それを見込まれて薩摩藩11代藩主・島津斉彬の養女になってほしいという話を持ちかけられます。

 

斉彬が篤姫を養女にした理由

斉彬が篤姫を養女に迎えたのにはある理由がありました。

それは斉彬が時の将軍である家定の跡継ぎに一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)を推していたため、篤姫を家定に嫁入りさせて、慶喜が跡継ぎになれるように裏工作をさせたかったからです。

 

ちょうど良いことに将軍家も薩摩藩から新しい正室を迎えたいと思っていました。

というのが、家定は2人続けて正室を早くに失っていたため、次の正室には長生きしそうな女性を、と考えていたのです。

 

なぜ薩摩藩からだったのかというと、家定の祖父である11代将軍・家斉の正室が8代藩主・重豪(しげひで。斉彬のひいおじいさん)の娘で、子どもをたくさん産んで長生きしたから。

篤姫という名前も実はこの正室の名前が「篤姫」だったことにあやかってのものだったのです。

 

めでたく結婚するものの…幸せな日々は長くは続かず

斉彬は篤姫を自らの養女にした後、さらに公卿(くぎょう。朝廷の高い身分の役人)の近衛忠凞(このえただひろ)に頼んで養女にしてもらった上で、家定と結婚させます。

この時、篤姫が数えの21歳、家定が数えの33歳。

 

こんなに年齢が離れているとうまくいくんだろうかと心配になるところですが、篤姫と家定は非常に仲の良い夫婦でした。

料理が趣味だった家定は、篤姫の実家から黒砂糖が送られてくると、それを使って彼女にカステラを作ってあげていたという話もあります。

 

関連記事→徳川家定の奇行は病気のせい?性格や篤姫との夫婦仲を解説!

 

ただ、そんな夫婦にも悩みがありました。

それは子供ができないこと。

仲が良かったにもかかわらず、子供に恵まれなかったのです。

 

これは家定がもともと病弱であったことや、彼が大奥に行っても篤姫よりも側室であるお志賀のところに行くことが多かったことが原因だといわれています。

 

そして篤姫と家定にあまりにも早い別れの時が訪れます。

跡継ぎが慶喜ではなく大老の井伊直弼が推していた徳川家茂に決まった直後、家定が急死したのです。

 

結婚してわずか1年7か月足らずで愛する夫を失った篤姫は、出家して「天璋院」と名乗ることになります。

 

 

明治維新後の篤姫

家定が亡くなった後も篤姫は大奥を仕切ります。

しかし、15代将軍となった慶喜が政権を朝廷に返す大政奉還を行なった後も政治の中心に居座ろうとしたため、新政府軍と戦うという事態に直面していました。

 

新政府軍が江戸城に迫ると、篤姫は新政府軍を率いる西郷隆盛に徳川家を存続させてほしいと手紙を出し、江戸城の総攻撃を中止させようと力を尽くしています。

 

篤姫は明治時代になっても故郷の鹿児島に帰ることはなく、東京で徳川の人間として暮らし続けます。

千駄ヶ谷の邸宅には和宮や勝海舟が訪ねて来ることもあったようなので、江戸城にいる時とは違い、自由な生活をしていたようです。

 

明治16年に脳溢血でこの世を去る篤姫。

墓所は上野寛永寺の徳川家定の隣りにあります。

 



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