明治政府が列強に相対するために唱えたスローガンが「富国強兵」。

そして、その一翼を担ったのが帝国陸軍の創設です。

 

創始者・山県有朋は長州藩の足軽以下の生まれでしたが、武芸に勤しむ姿が藩の有力者の目にとまり表舞台へ引き立てられました。

今回はそんな山縣有朋の処世術から彼の人生に迫ってみたいと思います。

 

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山県有朋の人生を簡単に解説

山縣有朋(1838~1922)は長州藩の武士、明治以降は軍人で政治家です。

1838年、萩城下に生まれ、武芸で身を立てることを決意し、槍術の稽古に励む日々を過ごしました。

 

1863年に高杉晋作が創設した奇兵隊に入ると次第に頭角を現し、高杉が総督を解任されると、その跡を継いで奇兵隊の総責任者となりました。

 

 

1869年にヨーロッパやアメリカに視察に出かけ、帰国後に徴兵制を取り入れるなど軍制改革を断行。

その後は内務卿として、現在の市町村に通じる区割りを制定しています。

 

日清戦争が勃発すると自ら戦地に赴き作戦を指揮。

有朋の指揮する部隊は特筆すべき戦果を上げましたが有朋自身は体調不良のため勅命で戦線離脱を余儀なくされました。

 

日露戦争では参謀総長として活躍し、日本を勝利に貢献ています。

このころ有朋は政治的にも軍事的にも発言力は絶大なものとなっていましたが、時代の変化に有朋自身がついていけませんでした。

そのため発言力も次第に弱まっていきました。

 

第一次世界大戦中、日本は積極的参戦こそしなかったものの日英同盟を理由に大陸にあったドイツ領を攻略したことで戦勝国となりました。

この勝利により大戦景気がもたらされ日本は債務国(お金を返済をしなければならない国)から債権国(お金を貸し付けている国)へ、さらには輸入国から輸出国へ様変わりしました。

 

日本の国際的な地位は急上昇しました。

人々は大喜びしましたが、有朋だけはそうはいきませんでした。

当時、欧米人による白人至上主義は顕著なもので、日本と同じく飛躍したアメリカとともに白人同盟を組み日本に対抗する恐れがあると危機感をもっていたのです。

 

1922年2月1日、有朋は危機感を拭い去れないままのため小田原の別邸で死去。

死因は肺炎と気管支拡大症でした。

 

享年83歳。

有朋の亡骸は国葬で送り出されました。

 

山県有朋は松下村塾なの?

長州藩の諜報員として入京した際、久坂玄瑞と出会い、彼の意志に心を打たれた有朋は松下村塾に入塾しました。

しかし、塾頭の吉田松陰が間もなく獄入りとなったため、実際に学んだ期間は数ヶ月と短いものでした。

 

それでも有朋は終世「松陰先生門下生」と口にし、絶大な影響を受けたと語っていました。

 

山県狂介と名乗った若き頃

山県有朋は、5人扶持の足軽の家の出身で、少年のころは役所の給仕のような仕事をしており、当時は山県狂介と名乗っていました。

山県は足軽身分のため、藩校明倫館に入ることができず、このため吉田松陰の松下村塾に入りました。

 

高杉晋作がのちに、奇兵隊を創設したとき、山県は「この身分制社会のなかで頭角をあらわすには、奇兵隊しかない」と思い、野心を内に秘めて入隊しました。

格別、革命思想を持っていたわけではありません。

 

最初は平隊士でしたが、自分の特技である宝蔵院流の槍術を他の隊士に教えるうち、しだいに奇兵隊内で重んぜられるようになり、いつのまにか「奇兵隊士の意見を代表する者は、山県狂介」と言われるまでになりました。

 

奇兵隊の主力幹部になる

高杉晋作など奇兵隊の幹部たちは、長州藩の政治や外交のために飛び回っており、常に奇兵隊を留守にしていました。

そして、幹部たちは「山県がいるから奇兵隊は大丈夫だろう」と考えていました。

 

山県は、そういった実務上の実力者的な地位を得るつもりで、仕事に精励し、いつしか奇兵隊の実権を握ってしまいました。

高杉晋作は、山県有朋のことを、はじめは実務馬鹿と思っていたようです。

 

高杉から見れば、山県という男は何をするにも慎重であり才気を感じさせませんでしたが、かわりに事務仕事を任せれば一級品でした。

 

山県有朋と高杉晋作

1863年、孝明天皇は徳川家茂を従えて、攘夷祈願のため賀茂行幸を行いました。

天皇の行幸は実に237年ぶりでした。

この模様を、高杉晋作と山県狂介は見物に出かけました。

 

孝明天皇と徳川家茂が通る賀茂河原にひざまずいていましたが、天皇が通りすぎ、将軍家茂が近付いてきました。

将軍家茂は、籠の中ではなく馬上の人でした。

 

将軍が、全身を大衆の前にさらけ出していたのです。

 

そのとき、人々はみな土下座して平伏していましたが、高杉晋作は顔をあげ、「いよう、征夷大将軍」と大向こうから声をかけるように叫びました。

隣にいた山県狂介は、さすがに顔色を失ったそうです。

 

もちろん、そんなことをすれば、捕えられて処刑されるかもしれなかったからです。

しかし幕府は、高杉晋作の非礼に対して何ら対応することなくやり過ごしました。

 

この行列は将軍が主体の行列ではなく、孝明天皇の行幸であり、将軍はそれに付き従う者にしぎなかったからです。

そして、高杉晋作は、それを計算したうえで、「いよう、征夷大将軍」と声をかけ、将軍の権威を失墜させたのでした。

 

 

西郷隆盛に感じていた恩義

明治維新後、山県有朋は西郷隆盛の協力を得て徴兵制を実現します。

この徴兵制を実現するに当たって、薩摩出身者と山県の間に対立が起こるのですが、この時に山県を擁護し、見守り続けたのが西郷隆盛でした。

 

西郷は山県の事をとても買っていたようで、山県に不祥事が持ち上がった時も、山県をかばい続けています。

 

明治政府で山県が出世できたのは西郷隆盛の力が大きいのですが、後にこの2人の運命は大きく食い違う事になります。

やがて西郷隆盛は新政府で木戸孝允や大久保利通と対立。

 

故郷である鹿児島に戻り、西南戦争を起こします。

この時、西南戦争の鎮圧に向かった新政府軍の指揮を執ったのが山県有朋で、山県はかつての大先輩であり、恩人の西郷隆盛と刃を交える事になってしまいます。

 

西南戦争の終盤、城山に立て籠もる西郷隆盛に対して山県は1通の手紙を送っています。

 

あなたとこうして戦う事になるとは思っていなかった。

今回の戦があなたの本心でない事を有朋は知っています。

あなたの偉大さは充分に証明された。

これ以上無駄な血を流さないためにも、自ら命を絶つ決断をして下さい。

 

西郷隆盛の協力で導入された徴兵制。

その徴兵制によって召集された軍隊で大恩人である西郷を攻め滅ぼさなければいけない立場になった山県有朋。

山県はこの手紙をどのような思いで書いたのでしょうか?

 

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山県有朋と伊藤博文

明治維新の三傑(木戸孝允・オ久保利通・西郷隆盛)亡き後、政府で絶大な権力を誇ったのが伊藤博文と山県有朋でした。

伊藤は4度も内閣総理大臣を務め、山県は2度の内閣総理大臣を経験しています。

 

この2人は長州藩の低い身分から総理大臣まで登りつめた人物として有名で、お互い仲も良かったそうです。

吉田松陰をはじめ、高杉晋作や桂小五郎の背中を見て育った長州の2大巨頭。

 

この2人が先輩達の跡を継いで明治という世を動かしていく事になります。

 

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3つの「はじめて」

有朋には日本史上の「はじめて」が3つありました。

 

ひとつは長州出身の陸軍軍人として内閣総理大臣に就任したこと。

次に内閣総理大臣として発足したばかりの帝国議会に臨んだこと。

最後に帝国議会を解散し、第1回目の衆議院議員選挙を実施したこと。

 

これらが有朋の日本史上の「はじめて」の3つです。

 

 

大の政党嫌い

帝国議会の設置に伴い、大隈重信や板垣退助ら著名人たちが政党を結成し、政治参加への関心が生まれていきました。

しかし、有朋は政党を極端に嫌っていました。

その理由は選挙区によって死票が出やすいというものでした。

 

死票が出やすいため政党の大小によって有利不利が鮮明となり、国民の意志を反映できない。

結局政党の意のままに議会が進んでしまうことを有朋は懸念していたのです。

 

文化人の一面

政治家、軍人のイメージが強い有朋には文化人の一面もありました。

和歌や漢詩はもちろん、書書道や茶道にも精通していました。

 

さらに造園にも造詣が深く、京都と小田原にあった有朋の別邸の庭づくりには自身の構想にそって庭師に制作させるほどの熱のいれようでした。

 

また、東京にある椿山荘は有朋が東京の屋敷として購入したもので、ここでも庭造りをしていました。

 

近代化の影で有朋が死ぬまで抱き続けた懸念

明治時代、急速に近代化が進み日本は列強の仲間入りを果たしました。

近隣の大国にも勝利し、イケイケの空気が日本中に蔓延していました。

 

そんななか有朋は、このことにある懸念を抱くようになりました。

それはいずれ日本が「イギリスやフランスさらにはアメリカをも巻き込んだ白色人種による同盟国と黄色人種国による戦争に巻き込まれるのでは」というものでした。

 

そのうえで、日本は清国はじめアジア地域と連携し、アメリカに対しては外交で均衡を保ち、決して対立すべきではないと説きました。

しかし、有朋の死後こうした懸念は現実のものとなり日本は戦争へと向かっていくこととなりました。

 



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