幕末の長州藩は政治の主導権争いが激しく、長井雅楽の優れた政策が棄却されたり、高杉晋作も方針の転換によって命を狙われるなど、混迷を極めていました。

 

そこで、今回は幕末の長州藩が関わった事件や、藩内の方針の変換などの歩みを備忘録も含めて簡単にまとめてみました。

 

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大攘夷と小攘夷

長州藩の歩みをみる前に、まずは大攘夷と小攘夷という概念についてみておきましょう。

外国人を追い払う『攘夷』という考えは『大攘夷』と『小攘夷』という2つに分けられます。

 

【大攘夷】

海外の文明は進んでいるので、まずは海外の進んだ文化や技術を盗み日本を強い国にして、外国と対等に戦える国力をつけようという先を見据えた考え方。

例)吉田松陰、長井雅楽、佐久間象山

 

【小攘夷】

日本が外国の脅威に屈する訳にはいかない、とにかく外国人を追い払おう(斬り捨てる)という考え方。

例)久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作

 

現代から見ると明らかに大攘夷が正しいですが、情報の少ない当時としては先見性や海外の知識をどれだけ持っているかでこの考えは変わってくると思われます。

ただ、どちらも日本の将来のためを思い、日本を守るためにというという事を第一に考えている事に間違いありません。

 

安政の大獄で吉田松陰を失う

激動の幕開けはペリーの来航。

井伊直弼が外国の脅しに屈する形で朝廷に無断で通商条約を結んだことに多くの志士が激怒します。

 

この時、幕府に対する批判が高まり、天皇を尊び(尊王)外国人を追い払う(攘夷)という尊王攘夷思想が拡大します。

 

井伊直弼は幕府を批判する者を捕え、安政の大獄を行う。

『文句のある奴は徹底的に排除する』というストロングスタイルの井伊直弼によって吉田松陰が命を落とす。

 

そんな中で長州藩は、攘夷ではなく長井雅楽航海遠略策(まずは開国して外国の技術を盗み、日本の国力をつけようという考え)を藩の方針にする。

 

しかし、吉田松陰を安政の大獄に送り出すなど長井雅楽に良い感情を抱いていなかった久坂玄瑞や桂小五郎が猛反発。

様々な工作の末、破約攘夷(条約を破棄して外国人を追い払うという考え)に藩論をひっくり返します。

 

四か国連合艦隊に敗れ、禁門の変でも敗北

『何が何でも攘夷を行う!!』と決めた久坂玄瑞が下関で外国船に砲撃。

しかし、報復のためアメリカ、フランスの艦隊が下関に攻め寄せて長州藩はあっけなく敗北・・・。

 

それでも『まだまだやれる・・・!!』と、長州藩は攘夷の姿勢を崩さなかったため、翌年の四か国連合艦隊の襲来を向かえることに・・・・。

 

そんな中、京都で8月18日の政変、池田屋事件禁門の変が起こる。

 

  • 池田屋事件・・・過激な計画を実行しようとしていた吉田稔麿らの尊王攘夷派の志士を新撰組が捕縛した事件。
  • 8月18日の政変・・・朝廷に大きな影響力持っていた長州藩を薩摩藩と会津藩が結託して京都から追い出したクーデター。
  • 禁門の変・・・京都を追い出された長州藩の猛抗議だったが、御所に向けて発砲してしまったため朝廷(天皇)の敵とみなされる。

 

一連の出来事で吉田稔麿久坂玄瑞入江九一、寺島忠三郎らが命を落とす。

 

そしてほぼ同時期に長州藩でも大変な事態が・・・。

前回のアメリカ、フランスにオランダ、イギリスを加えた四か国連合艦隊が下関に攻め寄せ砲台を占領。

 

禁門の変で主力軍がいなかったこともあり、長州藩はなす術もなく敗北。

この敗北で長州藩も初めて攘夷の無謀さを知り、今の現状で攘夷は不可能だという事を実感します。

 

連戦連敗。どん底の長州藩

そんな中、高杉晋作が伊藤博文らを伴い使者として四か国連合艦隊との講和会議に挑む。

『俺らは幕府の命令で攘夷を決行しただけだから賠償金は幕府からもらってね。』と晋作が主張し講和会議が終了。

 

しかし、池田屋事件、禁門の変、四か国連合艦隊の下関攻撃で長州藩はTKO寸前のフルボッコ状態。

さらに状況は悪化し、禁門の変に怒った朝廷の命を受けて幕府の長州征伐が開始される。

 

高杉晋作が功山寺で決起!クーデターに成功する!

禁門の変、下関戦争での敗北続きで長州藩は戦力も気力も低下していたため、この時は保守派の椋梨藤太が主導権を握る。

椋梨はひたすら謝罪して幕府に従う謝罪恭順の方針を決め、禁門の変の責任を取らせ三家老を切腹させる。

 

『禁門の変では御所に発砲してごめんなさい。長州藩は幕府の命に従います』スタンスを示す。

この状況に高杉晋作が奮起。

 

椋梨藤太が実権を握る長州藩の2000の兵に対して、80人で挙兵(回転義挙・功山寺挙兵)。

 

『これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れる』と言い放つと、颯爽と功山寺を後にして、見事20倍以上の敵に勝ってしまう。

(途中で山県有朋の率いていた奇兵隊などが加わる。)

 

この勝利で高杉晋作は椋梨藤太を排除。

謝罪恭順ではなく、幕府に謝罪しながらも軍備を整え、戦になった時は戦うという『武備恭順』に藩論を統一する。

 

武備恭順は『一応ごめんねって謝るけど、許してくれないなら拳で語ろうぜ』という漢気スタイル。

 

 

第二次長州征伐で幕府軍に勝利して討幕へ

その後も長州藩は幕府と戦う準備を着々と進め、桂小五郎、西郷隆盛が坂本龍馬の仲介で薩長同盟を成立させる。

そして、第二次長州征伐が起こる。

 

薩長同盟で薩摩の協力を得て、武器を調達していた長州藩は幕府の軍勢を相手に優勢に戦いを進め、高杉晋作も巧みな戦術で幕府軍を撤退させる。

 

幕府が派遣した兵力に、今でいう1つの県でしかない山口県が勝ったため幕府の名誉は地に落ちる。

頼りにならない幕府は倒してしまえという討幕の動きが広がる。

 

ただ、新しい時代を見ることなく高杉晋作は労咳で死去。

 

長州藩は残された桂小五郎伊藤博文山県有朋大村益次郎らが中心となって戊辰戦争、明治維新へと進んでいく事に。

 



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