西郷隆盛、大久保利通と並び、明治維新の3傑と言われる木戸孝允。
その木戸孝允が若いころに名乗っていた名前が桂小五郎(木戸貫治)です。
小五郎は松下村塾の塾生ではありませんが、吉田松陰に門人の礼を取り続け、友として、またはよき理解者としても松陰を支えていきます。
知勇兼備の志士
桂小五郎は藩医の息子として生まれ、8歳で桂家に養子に出されています。
幼い頃の小五郎は習字が上手く、手習いで書いた書が残っているのですが、そこには先生の最上級の褒め言葉が書かれるほど、達筆だったようです。
そして、江戸三大道場の一つと言われる斎藤弥九郎の練兵館で免許皆伝を受けるなど、剣客としても超一流の腕を持っていました。
まさに文武両道の秀才というわけです。
しかし、それだけの剣の腕を持っていても、生涯に一度も人を切ったことはなく、知性と優しさも兼ね備えた人物だったことが分かります(異説あり)。
坂本龍馬や勝海舟も人を切ったことがないと言われていますが、やはり一流の人物は自制心があり、無闇矢鱈に刀を抜くという事はなかったようですね。
それに加えて、かなりのイケメンなので、何もかもを持ち合わせて生まれたような超エリートだったことが分かります。
私の幕末男前ランキングでは、1位が桂小五郎で、2位が新撰組の土方歳三です(笑)
吉田松陰との関係
桂小五郎は17歳の時に萩の藩校・明倫館で吉田松陰に学んでいます。
この時から小五郎は松陰に門人の礼を取り続けたと言われ、松陰も手紙の中で桂小五郎のことを親友と言っているので、2人はお互いを認め合った仲であったようです。
先程も書きましたが、桂小五郎は松下村塾には通っていません。
そのため松下村塾生ではありません。
意外と桂小五郎を松下村塾の塾生だと思っている人が多いのですが、その原因は、松下村塾の中に桂小五郎(木戸孝允)の写真が”塾生”として飾ってあるからかもしれませんね。
実は私も小学校の修学旅行の時にこの写真を見てから、桂は松下村塾の塾生だとずっと勘違いしていました(笑)
感覚的には松下村塾に通っていた高杉晋作や久坂玄瑞は、松陰の弟子という感じですが、桂小五郎は松陰と年が3歳しか離れていないこともあり、弟子というよりは友達という側面の方が強かったのではないかと思います。
また、松陰が処刑された時には遺体を引き取って埋葬したり、幕府に破壊された松陰の墓を再建するなど、松陰亡き後もその友情に報いています。
ホント、何から何まで男前な人物です。
高杉晋作に頼りにされた苦労人
桂小五郎=木戸孝允は薩長同盟の締結や五箇条の御誓文の作成(加筆)で知られていますが、幕末には乞食となり、逃亡生活を続けるまでに落ちぶれたことがありました。
その時は愛人の幾松や対馬藩士の助けを借りて、何とか乗り切っていますが、エリート街道を進んできた小五郎にとっては最も苦難な時だったと思います。
しかし、長州で高杉晋作のクーデターが成功し、藩の勢力図が変わると、すぐに長州藩に迎えられたことを考えると、小五郎がいかに高杉晋作ら改革派(正義派)から信頼されていたかが分かります。
やはり、かなり人望の厚い人物だったんでしょうね。
桂小五郎(木戸孝允)旧宅
萩には桂小五郎が生まれてから20歳になるまで過ごした旧宅が残っています。
同じく萩にある高杉晋作の旧宅や伊藤博文の旧宅は中に入ることはできないのですが、木戸孝允旧宅は家の中に入ることができ、当時の小五郎の生活を多いに想像することができます。
木戸孝允旧宅の外観
2階建てでかなり裕福な感じのする造りです。
入口(裏の土間から中に入れます)の外と中からの写真。
正面の玄関の写真を撮り忘れたのですが、小五郎の実家はお医者さんだったので、患者さん用と通用口の2つの玄関に分かれています。
廊下と庭の眺め。
室内の様子。
こうして見てみると、伊藤博文の旧宅とはやはり大きな違いがあります。
伊藤博文の旧宅と比較してみると、いかに身分が違い、小五郎がいかにいいとこのお坊ちゃんだったかが良く分かりますね。
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