幕末の薩摩藩には国父と呼ばれる立場の人物がいました。
それが島津久光。
名君と呼ばれた島津斉彬とは異母兄弟の間柄でライバル関係にありましたが、斉彬の死後、藩政を掌握して事実上の薩摩藩トップにまで上りつめした。
幕末日本において必ずといっていいほど名前の挙がる久光はこの時代のキーマンのひとりです。
今回は、そんな久光の経歴や人生を振り返りながら彼が後世の日本に残したものを考えてみたいと思います。
島津久光ってどんな人?
島津久光(1817~1887)は、幕末の薩摩藩主で島津家29代当主です。
父は27代当主の斉興、母は側室のお由羅の方です。
兄・斉彬とは藩主の座を巡って争いましたが、これに敗れ一時表舞台から退きました。
転機となったのは斉彬が急死したことによる藩主の座が空座となってからです。
斉彬の遺言により藩主には久光の子忠徳が就き、後見役には久光の父斉興が就きました。
その斉興が死去すると、久光は国父となり事実上、薩摩藩の最高権力者の座にまで上りつめました。
藩政運営では斉彬の路線を踏襲する形で、大久保利通や小松帯刀ら若手を登用する一方、有望株と目されていた西郷隆盛とはそりが合わず、遠島処分を行うなど極端なものでした。
政治思想では公武合体を理想とし、朝廷と幕府が一丸となって国難に対処すべきとの思いをもっていたが、これが実を結ぶことはなく構想は頓挫しました。
そうしているうちに神奈川の外国人居留地近くで、イギリス人が薩摩藩の大名行列を妨害したとして無礼討ちにあう事件が起こると、イギリス側は謝罪と賠償を求めて薩摩へ艦隊を派遣する騒ぎとなります。
これに砲撃で応えた薩摩藩は戦争状態に突入し、両者ともに大きな損害を出す結果となっています。
この戦争を通じて、イギリスの力強さを見抜いた久光は、一転してイギリスとの友好を深めるべく、公使パークスを薩摩に招待し、自ら出迎えるなど歓待の上、薩英戦争の講和を成功させました。
パークスと個人的に友好関係を深めていった久光はイギリスの力を背景に薩摩藩の軍備増強を行い、ついに倒幕を決意するに至ります。
その後、大政奉還・王政復古・戊辰戦争を経て時代は明治へと移り変わり武士の世は終わりを告げました。
明治政府発足後は左大臣や麝香間伺候などを歴任しましたが、晩年は鹿児島で余生を過ごし、1887年に亡くなります。
不仲といわれる久光と斉彬のホントのところ
「久光と斉彬の関係は最悪だった」と事あるごとにネタにされるふたりですが本当の関係はどうだったのでしょうか?
久光と斉彬の藩主の座を巡って争いましたが、決して不仲でも最悪でもなかったようです。
その証拠に先に藩主となった斉彬は久光を排除することなく、むしろ重宝していたほどです。
久光もまた、斉彬の学問に打ち込む姿勢に感銘を受け、自身は国学の研究に勤しんでいました。
また、藩主騒動についても久光自身はあまり気がなく、単に周囲に担がれただけではないかともいわれています。
急速にイギリスと接近、その狙いは?
薩英戦争で引き分けに持ち込んだ久光はイギリスの圧倒的な軍事力を目の当たりにして、イギリスを手本に薩摩の軍備増強、近代化を画策しました。
この軍事力によって公武合体から倒幕へと舵を切りました。
久光の画策はやがて家臣たちによって実現されますが、久光にはある狙いがあったといわれています。
それは自らが徳川家に代わって将軍職に就くというものでした。
しかし、世の中は幕府だけでなく、武士そのものも無くしてしまったため久光の狙いが実現することはありませんでした。
鹿児島で過ごす晩年、そこに込められた久光の思いとは?
時代が明治に移ると、かつての家臣だった大久保利通や西郷隆盛はじめ多くの薩摩藩士たちが新政府で重用されるようになり、出世していきました。
久光自身も参議や麝香間伺候を務めるなどしましたが、あくまで名誉職で実権はほとんどありませんでした。
こうしたことから次第に新政府に不満を募らせていった久光は、ついに職を辞し、故郷鹿児島へ戻りました。
その後は隠居生活に入り、自身のルーツともいえる島津家の歴史の編纂や資料の整理などに時間を費やしました。
ところで久光は亡くなるまで和装や髷結い、帯刀をやめなかったといいます。
これには久光のある思いが込められていました。
維新後、急速に西洋化を推し進めた明治政府は前時代の文化や風習を否定する政策を連発しました。
その結果、各地で反乱が起こり、多くの命が失われました。
久光は西洋化によって失われていく日本の文化や風習を守るために、以前の格好を頑なに守ったのです。
死後、久光には国葬が執り行われました。