幕末の土佐で有名な人物といえば坂本龍馬。

その他にも板垣退助や後藤象二郎、武市半平太といった人物も知られています。

 

そんな中で忘れられがちなのが中岡慎太郎。

薩長同盟を実現させるために奔走した、龍馬にとっては切っても切れない盟友です。

 

しかし盟友とは言っても、この2人は考え方も果たした役割も少し違っています。

坂本龍馬がスポットライトを浴びたスター選手なら、中岡慎太郎はまじめで一生懸命なビジネスマンです。

 

そこで今回は、中岡慎太郎の生い立ちや功績、評価についてみていきたいと思います。

坂本龍馬とともに暗殺された近江屋での様子も詳しく解説するので、最後まで読んでみてください。

 

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土佐の大庄屋の息子で武市半平太の土佐勤王党に参加

1938年、中岡慎太郎は現在の高知県安芸郡北川村の大庄屋中岡家に生まれます。

もともとの武士の家系ではありませんが郷士として苗字と帯刀が許されていた家柄です。

 

中岡慎太郎

 

大庄屋というからにはそうとう大きな農家だったのでしょう。

高知県で柚子が名物になったのも、もともとは中岡慎太郎が飢饉の対策などのために栽培を始めたのがきっかけだったと言われています。

 

慎太郎が23歳の時に、剣術を習っていた武市半平太(たけちはんぺいた)が結成した土佐勤王党に参加。

ここから尊皇、倒幕の道がスタートし、一直線にまい進することになります。

 

ちなみに、この時に坂本龍馬や岡田以蔵らも同じく土佐勤王党に参加しています。

 

中岡の性格と評価!土佐勤王党・武市半平太の後継者として

土佐勤王党での慎太郎は、「50人組」というグループを組織して江戸に行き、お殿様の山内容堂を警護したり、長州藩の久坂玄瑞や佐久間象山を訪ねて政治や国防に関して議論をするなどしています。

 

坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎の銅像

 

しかし、1863年に京都で八月十八日の政変が起こると、土佐藩内でも土佐勤王党に対する弾圧が始まり、竹市半平太らが次々と捕らえられ投獄、処刑されるという事態になります。

慎太郎は身の危険を察知して、いち早く土佐藩を脱藩。

 

長州藩に身を寄せることになり、苦労しながらも同じく脱藩してきた同士の世話役として活躍し周囲からも認められる存在になって行きます。

 

脱藩してからは尊皇攘夷派の志士たちから武市半平太(瑞山)の正当な後継者とみなされ、八月十八日の政変で都落ちした公卿、三条実美らの衛士いわゆる護衛役につくなど、活躍の場と人脈を広げていくことになります。

 

武市半平太の後継者とみなされるということで、能力や人望が他の志士たちよりも勝っていて、強いリーダーシップを発揮できる人物だったことが分かります。

 

板垣退助も中岡慎太郎のことを下記のように評価しています。

「世間で名高くなっている坂本龍馬よりは、ある面で優れていたかと私は思っている。中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた」

 

 

坂本龍馬と再会、倒幕の道へ

長州藩で色々な人物との交流を深めた慎太郎ですが、「禁門の変」や「長州征伐」、「下関戦争」での敗北などを目の当たりにして、単なる尊皇攘夷の限界を感じるようになります。

 

そんな時に坂本龍馬と再会。

2人は「今の幕府を倒して、政治体制を一新する以外に道はない。」と、徳川幕府を倒すことを目標として定めました。

 

『攘夷(外国を追い払う)→倒幕(幕府を倒す)』

という風に、方針の転換をした訳です。

 

薩長同盟の実現へ

倒幕のためには何が必要か?

それはやはり、大きな武力を持つ徳川幕府に対抗できる勢力を作り上げることです。

 

慎太郎と龍馬は強い藩を結びつけて大きな勢力とすること、すなわち力のある藩の連合で幕府に対抗しようと考えました。

しかし、それには大きな力を持ちながらも八月十八日の政変以来、激しく対立している薩摩藩と長州藩を仲直りさせなければいけません。

 

そこで、中岡慎太郎は長州藩の有力者である桂小五郎の説得に、坂本龍馬は薩摩藩の西郷隆盛の説得にそれぞれ奔走します。

 

2人は努力の甲斐あって、桂小五郎と西郷隆盛を下関で会談させる約束を取り付けます。

しかし、この時は直前で西郷隆盛が会談をドタキャン。

 

桂小五郎だけが下関で待ちぼうけを食わされるという失敗に終わってしまいました。

 

なんともがっかりな話ですが、ここで二人はくじけずに再び動き、1867年2月に何とか薩長同盟の成立にこぎつけます。

 

坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像

 

1867年といえば大政奉還が行われる年。

薩長同盟は坂本龍馬の功績として語られることが多いですが、中岡慎太郎の活躍も明治維新に大きく貢献したことがわかりますね。

 

 

近江屋での暗殺!中岡慎太郎の最期の様子

薩長同盟を成立させた2人は、自らの出身である土佐藩と薩摩の同盟である薩土盟約も結ばせることに成功します。

しかし、この頃から慎太郎と龍馬には少しずつ考え方にずれが生じてきました。

 

中岡慎太郎はあくまでも薩摩、長州とともに旧幕府を武力によって倒すことも目指しているのに対して、坂本龍馬は徳川家も加えた、武力によらない形での新しい国づくりを目指しました。

結果的に龍馬の描いた大政奉還はなされましたが、完全に龍馬の思い通りにはならず、鳥羽伏見の戦いから続く旧幕府の武力討伐は戊辰戦争まで続くことになります。

 

そして、1867年11月に2人が近江屋に滞在している時に事件は起きます。

坂本龍馬と中岡慎太郎が向かい合って話をしているところに、数名の武士が斬り込んできました。

 

龍馬は額や頭を斬られて瀕死の状態に。

中岡も脇差で応戦しますが、両手の拳や両脚など28カ所を斬りつけられて気を失ってしまいます。

 

その後、中岡が意識を取り戻した時には龍馬はまだ生きていては、「俺は脳をやられたから、もういかん。」といって絶命したとされています。

 

龍馬と中岡が暗殺された近江屋跡

 

中岡はこの後救出され、2日間生き延びています。

その際に「倒幕を急がないと逆襲されてしまう。同志たちは奮起してほしい。」という言葉を残しています。

 

両手両足に加え、頭部から背中にかけても斬りつけられていた中岡慎太郎。

不屈の精神で一度は容態を持ち直しますが、最後は出血多量が原因で亡くなってしまいます。

 

これが中岡の最期の様子です。

 

龍馬と中岡を暗殺した犯人は今でも判明はしていません。

京都見回り組の仕業とも、武力倒幕を阻む龍馬を嫌った薩摩の仕業とも、新撰組の残党とも、いろいろな説があります。

 

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中岡慎太郎の笑顔の写真の秘密

中岡慎太郎の写真は何枚か残っていますが、その中に笑顔で写っている写真があります。

当時の武士の写真は口を閉じているものが多いので、中岡が笑っている写真は当時としても珍しいもの。

 

 

実はこの写真は中岡の右側が塗りつぶされているのですが、そこには女性が写っていると推測されています。

中岡が右肘をついているのですが、そこに女性の着物が写っているからです。

 

満面の笑みを浮かべながら女性と一緒に写った写真・・・。

幕末の英雄のイメージを壊さないために、誰かが塗りつぶしたのかもしれませんね?

 

まとめ

明治維新のヒーローとして坂本龍馬がスポットライトを浴びていますが、その陰には、ひたすら一直線に倒幕にまい進した中岡慎太郎の存在がありました。

正直な話、坂本龍馬一人では薩長同盟や大政奉還は達成できていなかったはずです。

 

中岡は一般的にはあまり知られておらず、過小評価されている感じがありますが、実際は坂本龍馬に勝るとも劣らない資質を持っていたのではないかと思います。

個人的には、もう少し中岡慎太郎の功績が評価されて有名になれば良いなと願っています。

 

ちなみに、中岡慎太郎の実姉の子孫が劇団ひとりさんだそうですよ。

 



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