西郷隆盛と錦江湾に身を投げたことで有名な僧・月照。

隆盛が命を取り留めた一方で、月照が息を吹き返すことはありませんでした。

 

では、お坊さんでありながら攘夷運動に参加した彼は、なぜそこまで追いつめられてしまったのでしょうか?

 

今回は西郷隆盛が自ら命を絶つと覚悟した際に行動を共にした、月照という僧の生涯に迫っていきます。

 

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医者の息子として生まれながらもお坊さんに

月照は、大坂(現在の大阪)の町医者・玉井宗江の息子として生まれます。

そして、15歳で京都の清水寺にある成就院で出家してお坊さんになります。

 

 

その後23歳の若さで住職(おしょうさん)になり、お寺全体の改革に取り組みますがこれが失敗。

寺から逃げ出し北越を旅したのち、弟の信海に寺の仕事を譲ります。

 

そして、ここから彼の攘夷を実現させるための運動がスタートしました。

 

月照はなぜ攘夷運動に参加した?

月照が住職をしていた成就院は、薩摩藩主・島津斉彬の親戚にあたる近衛家と親しい間柄にあり、同時に関白(天皇を補佐し、政治を行う役職)の鷹司家(たかつかさけ)や、皇族の青蓮院宮家(しょうれんいんのみやけ)とも親しい間柄にありました。

 

このうち近衛家が斉彬と親戚関係にあるという理由で、隆盛が13代将軍・家定の次の将軍に一橋慶喜を推薦してほしいと働きかけていたため、月照と薩摩藩士との交流が始まり、やがて攘夷運動に参加するようになったのです。

 

徳川慶福VS一橋慶喜…将軍継嗣問題って?

月照が特に力を入れていたのが将軍継嗣問題です。

どういう問題だったのかというと、そもそもはペリーが来航した直後に、12代将軍・家慶(いえよし)が亡くなったことから始まります。

次の将軍となったのが、家慶の4男・家定だったのですが、この家定が病弱で、しかも人に会うとぶるぶるふるえ出して口がきけなくなるという人だったため、何かあった時に困るという話になりました。

 

その上彼には子どもがいなかったので、跡継ぎを誰にするかという争いが起こったのです。

候補となったのが、家定のいとこにあたる紀州の徳川慶福(よしとみ-のちの家茂)と、水戸の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の2人で、月照は斉彬や隆盛と同じく、優秀なことで知られる慶喜を推していました。

 

井伊直弼が大老に…安政の大獄で追われる

慶喜を跡継ぎにするため、隆盛は斉彬の命でさまざまな有力者と会いますが、情勢は彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が大老に就任したことで一変します。

大老というのは幕府の役職で最も高いもので、彼は慶福を跡継ぎにしようとしており、大老に就任するとさっそく跡継ぎを慶福に決定してしまったのです。

しかし慶喜を推す一派もすぐには納得しません。

 

家定が亡くなると、朝廷(皇室のこと)に働きかけて、慶福をすぐには将軍に任命させないようにしたのです。

これに怒った直弼は、慶喜を推す一派を徹底的に弾圧することにしました。

これが安政の大獄です。

 

しかもこの直前、隆盛の元にショッキングな知らせが届いていました。

主君の斉彬が急死したのです。

 

この知らせに衝撃を受けた隆盛は、斉彬の後を追って自殺しようと考えます。

(当時は主君が亡くなった際に、家臣も後を追って命を絶つ殉死という考え方がありました。)

 

これは月照の説得によって回避されますが、安政の大獄による激しい弾圧が月照と隆盛に襲いかかります。

 

直弼は、慶喜を推す一派や尊王攘夷派(天皇を国の政治の中心と考え、外国人を日本から追い払うべきだという考えを持っている人たち)を次々に逮捕したり、謹慎に追いやったりした上に、隆盛が行動を共にしてきた橋本左内など8人には死刑を言い渡しました。

 

月照もこの弾圧から逃れるため、隆盛と共に薩摩藩に向かいます。

しかし斉彬が亡くなったばかりの藩は、月照を受け入れるどころか「日向送り」を命じます。

これは「永送り」とも呼ばれていて、薩摩藩の国境を越えたところで切り殺される、というものでした。

 

国境に送られるため、藩の船に乗せられた月照と隆盛。

とうとう追いつめられた2人は、船の上である行動に出ます。

 

船の上から錦江湾に身を投げた月照の最期…明暗を分けた2人

月照は隆盛と共に、船の上から11月の冷たい海に身を投げたのです。

2人は救出され、隆盛は数日後に意識を取り戻しますが、月照は亡くなってしまいます。

 

この事態を重く見た藩は、助かった隆盛を逃がすため、幕府には「隆盛は死んだ」と嘘をつくことにし、彼は「菊池源吾」と名を変えて、奄美大島にかくまわれることになったのです。

 

生きながらえて…隆盛の月照への思い

安政の大獄で反発を招いた井伊直弼は、江戸城の桜田門外で水戸藩と薩摩藩の藩士に暗殺されます。

これが桜田門外の変です。

 

その直弼によって将軍の座を射止めた家茂の死後、慶喜が15代将軍となって、政治を行う権力を朝廷に返還する大政奉還を行ったことで、日本は大きな転換点を迎えることになります。

 

慶喜が14代将軍になることを願い続けた月照の墓は、鹿児島県鹿児島市の南洲寺にあり、明治維新の後、墓参りに訪れた隆盛は自分だけが生き残ったことを悔やみ、墓の前で大きな声を上げて泣いたといわれています。

仏の道に入りながらも、国の将来を思って攘夷運動に人生をささげた月照は、こうして歴史に名を残しているのです。

 



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