260年以上続いた江戸時代を自らの手で終わらせた江戸幕府15代将軍・徳川慶喜。
慶喜が大政奉還を行なったことで徳川家による政治が終わり、新しい時代へ突入していきます。
では、なぜ慶喜は自らの手で家康が築いた徳川時代を終わらせたのか?
今回は徳川慶喜という人物にスポットをあてて、慶喜の将軍としての評価や明治維新後の暮らしについてみていきましょう。
水戸徳川家に生まれながら一橋家を継いだ理由
慶喜は「烈公」と呼ばれた水戸藩主・徳川斉昭の7男として、江戸にある水戸藩の屋敷で生まれ、11才の時に一橋家の養子となります。
これは12代将軍・家慶(いえよし)が決めたことで、彼は息子である家定が病弱だったため、次の将軍には慶喜を就かせたいと考えていました。
そこで、将軍家の親族として扱われ、将軍の座に一番近い家のひとつである一橋家を継がせることにした訳です。
そのため一橋家を継いだ慶喜は一橋慶喜と名乗ることになります。
激しい跡継ぎ争いを経て将軍に就任
時の将軍・家慶が自分の跡継ぎにと望んだ慶喜でしたが、当の家慶が慶喜を正式な跡継ぎに決定する前に亡くなってしまったため、家定が次の将軍に就任します。
家定は将軍としての資質に欠けている人物でしたが、なんだかんだで一応将軍の職を務めていました。
しかし、篤姫との間にも肝心の跡継ぎ(子供)を作る事ができませんでした。
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そのため、早いうちから跡継ぎ問題が持ち上がったのです。
薩摩藩主の島津斉彬や越前福井藩主の松平慶永(春嶽)などから支持を受けた慶喜は、家定や彦根藩主の井伊直弼が支持する徳川家茂と次の将軍の座を争うことになります。
家茂は当時8歳(!)だったので、いくらなんでも17歳の慶喜が跡を継ぐだろうと思われていましたが、直弼が幕府最高の地位である大老に就任すると、事態は一変。
直弼が慶福を跡継ぎに決定し、慶喜を支持した者たちを激しく弾圧し始めたのです。
この流れで慶喜も謹慎を言いつけられてしまいます。
ところが桜田門外の変で直弼が暗殺されるとこれまた事態は一変。
慶喜は家茂をバックアップする将軍後見職に就任し、家茂が亡くなると、跡を継いで将軍の座に就くのです。
大政奉還を決断するも戊辰戦争に突入
将軍になった慶喜は弱った幕府を立て直そうとフランスの支援を受けて改革を行いますが、幕府が持ち直すことはなく、ついに大政奉還を決断しなければならなくなってしまいます。
しかし慶喜は大政奉還を行った後も政治の中心に居座ろうとしたために、とうとう幕府は薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍と戦うことになります。
京都や東日本を戦場としたこの戦いは戊辰戦争と呼ばれ、函館の五稜郭まで続く内戦となってしまいます。
そもそも大政奉還ってなに?
大政奉還とは、幕府が持っている政治をする権利を朝廷に返上すること。
江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が、朝廷から授かった「征夷大将軍」という位とともに、政治をする権利を朝廷に返上した出来事を指します。
大政奉還が行われたのは京都の二条城。
慶喜が政権を返上したことで、徳川幕府による260年の支配が終わります。
では、なぜ徳川慶喜は大政奉還を行ったのでしょうか?
徳川家康が開いた幕府を終わらせるというのは、並大抵の決心ではなかったはずです。
そこで、次は慶喜が大政奉還を決めた理由や時代背景を見ていきましょう。
慶喜が大政奉還を行なった理由や背景
慶喜が将軍となったころ、幕府は以前のような権威を維持しておらず崩壊寸前でした。
欧米諸国からの圧力に押されて不平等な条約を結ばされるなど、諸藩の間には「もう徳川幕府に政治を任せておけない。」という風潮が高まっていました。
そんな中で打倒徳川を掲げて実行に移したのが薩摩藩と長州藩。
薩摩と長州は公家・岩倉具視らを巻き込んで、「討幕の密勅」と呼ばれる極秘命令を受け、武力による倒幕を実行に移そうとしていました。
「このままでは幕府が薩摩や長州などの連合軍に攻め滅ぼされてしまう・・・。」
そう考えた慶喜は、土佐藩からの建白もあり、機先を制して大政奉還を行います。
徳川幕府が政権を朝廷に返上すれば、薩摩や長州は徳川を攻める理由(大義名分)がなくなるという訳です。
つまり、大政奉還は弱体化していた徳川幕府を守るための最後の手段だった訳です。
そして、慶喜には政権を返上しても徳川が今まで通り生き延びていけるという打算もありました。
政権を返したとしても鎌倉時代から700年近く政治の舞台を離れていた朝廷には運営のノウハウがなく、結局は徳川が政治を行うことになるという計算があったのです。
事実、朝廷からは引き続き慶喜に政務が委任され、将軍職も保持したままでした。
ただ、これを面白く思わなかったのが肩透かしを食らった薩摩藩や長州藩。
倒幕を目指していた志士たちは朝廷に働きかけ、ついに天皇が「王政復古の大号令」を発します。
これによって、武士によって続けられてきた政治を廃止し、天皇中心に政治が行われることになります。
大政奉還と王政復古の大号令の違い
大政奉還と王政復古の大号令の違いが分かりにくいという方が多いのですが、簡単に分けると下記のようになります。
- 大政奉還:幕府が政権を朝廷に返上すること。
- 王政復古の大号令:幕府を廃止して新政府を作り、武士ではなく天皇中心の政治を行うこと。
実際は大政奉還後も徳川が政治を委任されていましたが、正式に幕府を廃止して、徳川抜きで天皇中心の政治を行うことを宣言したのが「王政復古の大号令」です。
慶喜は名君なのか暗愚なのか?その評価と私が思う功績
徳川幕府を終わらせた将軍として、慶喜は名君だったのか暗愚だったのかという議論が行われることがあります。
つまり、徳川慶喜の将軍としての評価ですね。
私は、慶喜は日本を危機から救った名君であると思います。
当時、アジアのほとんどの国がイギリス、フランス、オランダなどの植民地となっており、日本も例外ではなく隙あらばという状況でした。
こうしたなかで慶喜は彼らの力を外交に利用し、自らの権威づけに成功しています。
大政奉還後も自分が中心となる新国家体制を模索しますが、鳥羽伏見の戦いでの敗退によりこの計画は破綻。
当時、幕府に肩入れしていたフランス公使は再起を促しますが、慶喜は頑として拒否しています。
慶喜が恐れていたのは、日本が植民地化されることであり、それを避けるためにも内乱は絶対に回避せねばいけないことでした。
もし、フランス側の再起を受け入れていれば、それこそ全国規模での内乱となり、仮に旧幕府が勝利したとしてもフランスに分け前を要求されていたかもしれません。
それを考えると、慶喜は自らが悪役となることで日本の植民地化の危機を回避し、スムーズに新体制に移行させた名君といえると思います。
明治維新後の慶喜の暮らしはどんなだった?
慶喜は新政府軍から一旦は賊臣と見なされますが、家臣たちの尽力により赦免され、故郷の水戸、そして徳川家ゆかりの静岡で謹慎生活を送っています。
将軍という地位を失った慶喜は明治時代をどう生き抜いたのか?
徳川幕府がなくなったとはいえやはりそこは元・将軍。
一般人となって働いていた訳ではなく、趣味にいそしむ暮らしをしていたとされます。
実はとても器用だった慶喜。
乗馬・武芸・油絵・カメラなど色々な趣味に興じ、その中でもカメラに関してはプロ級だったようです。
ちなみに、西郷隆盛が西南戦争で亡くなってから20年後、息子の寅太郎が侯爵になった時、慶喜は最高級の馬車で東京の西郷家を訪れます。
この時、屋敷はとても質素だったそうですが、慶喜は座敷に上がり、隆盛の妻の糸にお祝いの言葉を伝えたとされています。
なぜ慶喜はわざわざ西郷家を訪れたのか?
これは戊辰戦争で西郷隆盛が勝海舟と会談して江戸城の総攻撃を中止したことに対して、慶喜が恩を感じていたからだと言われています。
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明治2(1869)年に謹慎が解かれた後は30年近く静岡にとどまり、写真撮影に出かけたり、狩猟や投網を楽しむなど趣味人としての余生を過ごしていました。
また政治には一切の興味を示さず、訪ねて来た旧幕臣にもほとんど会わなかったといいます。
「もう政治には関わりたくない・・・。」
これが慶喜の本音だったのかもしれません。
なぜ慶喜の墓所は寛永寺や増上寺にないのか?
慶喜は静岡で過ごした後、東京の小石川に移り、この地で最期を迎えます。
そして亡骸は谷中霊園に葬られます。
歴代の徳川将軍は上野の寛永寺や芝増上寺に墓があるのですが、なぜ、慶喜の墓は寛永寺や増上寺ではなく谷中霊園なのでしょうか?
実は慶喜は自ら幕府を終わらせてしまったことで、歴代将軍に顔向けできないという自責の念があったと言われています。
そのため、徳川の菩提寺ではなく、谷中霊園にお墓があるという訳です。
また、生前、明治天皇の大赦によって朝敵の汚名を晴らせたばかりか、明治維新の功労者として、公爵の爵位を授けられたことへの感謝を表していたからという説もあります。
その証拠に、慶喜のお墓は仏教式のお墓ではなく、皇室と同じ神式の墓。
慶喜が生きている時に神道への切り替えを表明したため、寛永寺にあった妻や一族の墓所が谷中霊園に移されています。
これはやはり、一度は朝敵となった自分を優遇してくれた、明治天皇に対する感謝の気持ちがあったのではないかと思います。
大政奉還という日本の歴史に残る大きな決断をした慶喜は、江戸・明治・大正の3つの時代を生き抜きました。
谷中霊園の慶喜の墓所に行ってきた
徳川慶喜はどんなお墓に葬られているのか?
江戸幕府の15代将軍のお墓はどんなものなのか気になりますよね?
慶喜の墓所がある谷中霊園は東京の日暮里駅の直ぐ近く。
谷中霊園内にはこんな感じで看板が出ていますが、とても広いので、しっかりと下調べしておかないと確実に迷子になってしまいます。
そして、これが慶喜公の墓所。
門には葵の御紋が掲げられ、広い区画に妻や息子たちと一緒に埋葬されています。
現地の案内板
慶喜のお墓は神道のもので、半円と円筒の組み合わせ。
形が違うということもありますが、歴代将軍のお墓と比べるとそこまで大きくはありません。
アップにするとこんな感じ。
ここに激動の時代を生き抜いた15代将軍が埋葬されていると思うと、とても感慨深いものがありました。
慶喜の墓所の直ぐ側には、勝海舟の養子になった息子のお墓もあります。