武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区)で、島津久光の行列を横切ったイギリス人に薩摩藩士が斬りかかった生麦事件。
イギリス人3名が死傷したため、日本とイギリスの国際問題に発展し、最終的に薩英戦争へとつながります。
どうしてこの事件は起き、戦争に至ってしまったのか?
今回は生麦事件の原因や薩英戦争に至る流れを分りやすく解説します。
薩英戦争に関してはこちら→薩英戦争の原因と結果を分りやすく解説!賠償金はどうなったの?
生麦事件が起きた原因と経緯
生麦事件は簡単に言うと、薩摩藩の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が無礼だとして斬り殺したという事件。
そして、外国人を斬り殺した犯人として知られるのが、奈良原喜左衛門と有村俊斎(海江田信義)です。
彼らは久光の命で京の旅館・寺田屋に向かい、幕府の役所や有力者を襲う計画を立てていた過激派の薩摩藩士をの説得を試みた後、久光に従って行列に加わっていました。
そして、久光の行列が武蔵国生麦村(今の横浜市鶴見区)に差し掛かった時。
行列の前に、馬に乗った外国人4名が現れます。
生麦事件が発生した場所の古写真→現在の神奈川県横浜市鶴見区
外国人は生糸商人のマーシャルと義理の妹であるマーガレット、アメリカのハード商会社員のクラーク、上海の商人のリチャードソンの4名。
彼らは外国人が自由に旅行していい区域の中にある川崎大師に向かう途中でした。
そして、馬に乗ったまま行列の前を横切ってしまったため、有村俊斎らに斬りつけられるという悲劇がおこってしまいます。
久光は正式には藩主ではありませんが、藩主の父・国父として実質的に政治を行っていました。
よって久光の行列も大名行列に等しいものだったのです。
大名行列といえば、時代劇での「下に~下に~」の声で、その場にいる人々が「ははーっ」とひざまずくシーンでおなじみですよね?
ただ、イギリス人たちはこのルールを知らなかったため、馬に乗ったままでもたもたしてしまいます。
喜左衛門は彼らに引き返すよう注意しますが、リチャードソンがすぐに馬の向きを変えることができなかったことから、「おのれ無礼な!」と彼らに斬りかかったのです。
わけが分からないまま斬られた彼らのうち、リチャードソンが死亡、マーシャルとクラークが重傷を負ってしまいます。
この時俊斎は、ひん死の状態だったリチャードソンに「今、楽にしてやっど(今、楽にしてやるぞ)」と声をかけてとどめを刺したのです。
有村俊斎、優しいような残酷なような・・・・。
生麦事件のおきた場所は?
生麦事件が起きた生麦村は、神奈川県横浜市の鶴見区にありました。
現在はリチャードソンが落馬して有村俊斎にトドメを刺されたという場所に、石碑が建てられています。
石碑の場所はキリンビール横浜工場の目の前です。
生麦事件の際の久光は?
さて、ここで気になるのが生麦事件が発生した時の島津久光の反応です。
かごに乗っていた久光は事件の直前、喜左衛門の「異人か!」という声を耳にしています。
偉人というのは外国人のことです。
外の様子が気になった久光がお供の者に「何事か?」と尋ねると、「異人が参るそうでござります」と返ってきました。
この答えに久光は「けんかにならなければいいが…」と思いますが、その心配もむなしく、「けんかになりました」という報告が届いてしまうのです。
この後、久光はかごに乗って血が飛び散った現場を通過し、立場という休憩所でお茶を飲んでいました。
そこに家来の者が慌てて「申し上げます!」と事の一部始終を報告してきたのです。
こうなると普通はお茶どころではありません。
しかし久光は藩士を動揺させないように、そんな気持ちは全く顔に出さなかったといわれています。
激怒したイギリスの要求と薩摩藩のびっくり対応
自国の国民を斬り殺されたイギリスはもちろん激怒。
幕府に対して10万ポンドの賠償金と正式な謝罪を、薩摩藩には2万5千ポンドの賠償金と犯人の引き渡し、そしてイギリスの軍人の立ち会いの下で犯人を処刑するよう要求します。
幕府はこれに応じますが薩摩藩は拒み、それどころか「イギリス人に斬りかかったのは岡野新助って藩士だよ?」と、実際にはいない藩士の名を伝えて、喜左衛門と俊斎を守ったのです。
とはいっても架空の藩士をでっち上げたところで、イギリスにしてみれば「だからどうした」なわけで、薩摩藩は「上手くいったぜ!」と思ったかもしれませんが、イギリスは変わらず要求を続けます。
イギリスが実力行使!薩英戦争の始まり
いくら薩摩藩に要求しても拒否されるので、我慢できなくなったイギリスは薩摩に7隻の艦隊を派遣します。
というのもイギリス政府は、駐日代理公使(日本で自国を代表する役職)のニールに、薩摩藩が要求を拒否するか引き延ばしたら、実力行使もやむをえない、と指示を出していたのです。
こうして錦江湾にやってきたイギリス艦隊。
薩摩藩との直接交渉を試みますが、薩摩藩は「いや、こっちは日本のルールにのっとっただけだから」と、交渉を拒否します。
そしてこの返答を聞いたイギリス艦隊はついに実力行使に打って出ます。
それは薩摩藩の3隻の船を捕らえ、交渉のカードにするというものでした。
要するに「そっちの船を返してほしければ要求を受け入れろ」ということです。
なんか賠償金が身代金みたいになってきましたね。
イギリス艦隊はこれでどうにかなるだろうと思っていたかもしれませんが、薩摩藩は要求を受け入れるどころか「そうか、そっちがそう来るならこっちにも考えがある」と、船が捕らえられたのを攻撃とみなし、城下に設置した大砲をイギリス艦隊に向けて撃ったのです。
こうして、薩英戦争の火ぶたが切って落とされました。
日本とイギリス、お互いの習慣の違いが悲劇を生んだ生麦事件。
この事件は日本の藩の一つである薩摩藩と大国イギリスが戦うという異例の戦争を引き起こす原因となってしまいました。
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有村俊斎、優しいような残酷なような・・・・。
有村のとどめをさすという行為は、決して苦しんでいる人を早く楽にしてあげるという優しさからやった行為ではないと思います。武士たる者、一旦刀を抜いた以上は、相手を死亡させることは絶対条件なのです。斬った相手が死なないで生き延びた場合、斬った本人が武士道不覚悟ということになります。だから、有村は、重傷を負い、畑に逃げたリチャードソンを追って、トドメをさしたのです。また、彼が攘夷論者であり、外国人を憎んでいたことも根底にあったと思われます。