幕末騒乱のなかにあって、ひときわ存在感を放っていた薩摩藩。

そのトップの座についていたのが藩主の島津斉彬です。

 

斉彬は薩摩藩の11代藩主。

富国強兵によって藩政改革を断行し、一外様大名に過ぎなかった薩摩藩を雄藩にまで押し上げた名君として知られています。

 

今回は斉彬の藩政とその人となりについてみていきましょう。

 

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島津斉彬ってどんな人?

島津斉彬(1809~1858)は、幕末の薩摩藩主で島津家28代当主です。

曾祖父・重豪の影響から幼少期より蘭学など西洋の文化に触れていた斉彬は、早くから欧米の事情に精通していました。

 

 

そのためアジアの状況はもちろんのこと、日本の将来に迫る危機を痛感していたのです。

「一刻も早く日本が近代化しなければ欧米の属国になり果てることは避けられない」。

これが斉彬の考えでした(おそらく)。

 

それはなぜか?

その答えはアジアの状況にありました。

 

当時、アジアは日本を除いてほとんどの国がイギリスやフランス、オランダなどの植民地となっていました。

先進的で強大な軍事力を持つ欧米諸国の前にアジアはあまりに無力で 瞬く間に植民地支配されてしまったのです。

その脅威は、幕末の日本にも迫りつつありました。

 

藩主に就任した斉彬は、その危機感を藩政に反映させ、洋式軍艦の建造や反射炉、溶鉱炉の設置、ガラスやガス灯など他藩に先駆けて欧米の先進技術を取得しています。

 

さらに越前の松平春嶽や水戸の徳川斉昭など有力な人物と交流し、知見を深めていた斉彬は、下級武士の西郷隆盛大久保利通らを藩の人材として登用。

彼らが後の世で名を残すことができたのは斉彬の揺るぎない功績といえるでしょう。

 

そして、外様大名ながら幕政にも関わる野心を抱いていた斉彬は、ある秘策を実行に移します。

それは、島津家の分家筋の娘を自らの養女として13代将軍徳川家定に嫁がせること。

 

この娘こそ、かの有名な篤姫です。

かくして幕政に関わるチャンスを手にした斉彬でしたが将軍継嗣問題が起こったとき、徳川斉昭の子、一橋慶喜の擁立に動き失敗、政争に敗れてしまいました。

 

巻き返しを狙っていた斉彬ですが、同じ年、病に倒れ亡くなってしまします。

 

日本発のアレを建造

長崎や当時薩摩の支配下にあった琉球を通じて、西洋の高度な情報を手に入れていた斉彬は、欧米に対抗するためには欧米の技術を取り入れる必要があると考えていました。

 

そこで領内に殖産興業を起こし技術習得に励んでいます。

こうして出来上がったのが「雲行丸」という蒸気船。

 

蒸気機関を搭載した「雲行丸」は日本発の国産蒸気船として他藩や幕府からも高い注目を集めました。

しかし、当時の技術が低かったからか明治の世となって20年足らずで「雲行丸」は廃棄処分となってしまいました。

 

ニセ金つくりに奔走

斉彬が藩政を執っていたころ藩財政は窮地にありました。

理由は歴代藩主の借金過多です。

 

その多くは幕府に対してのものでしたが、返済するにはあまりに大きな額、とても藩政を維持できません。

そこで斉彬はニセ金づくりという秘策を編み出します。

 

かつて幕府が財政危機に瀕するたびに行ってきた改鋳(貨幣を作り直すこと)、これを薩摩でもやろうというのが斉彬の思惑でした。

 

斉彬は江戸から腕利きの鋳物師を極秘に薩摩へ招き入れ改鋳を実行。

改鋳によって生み出されたニセ金は200万両を超え、その多くが倒幕の資金源となりました。

 

華麗なる血筋

斉彬の父方の家系をさかのぼれば、やがて島津家初代に行きつきます。

では、母方の家系はどうなのでしょうか?

実はこの家系がとても興味深いのです。

 

斉彬の母は弥姫といい、父は鳥取藩6代藩主・池田治道で、母は第仙台藩7代藩主伊達重村の娘・生姫です。

この生姫が血筋のキーパーソンとなっていて、生姫の血筋をさかのぼっていくと伊達家の中興の祖にして、仙台藩初代藩主の伊達政宗に繋がります。

 

それだけではありません。

なんと江戸幕府の創始者の徳川家康や戦国一の有名武将である織田信長にも繋がるのです。

 

つまり斉彬は、島津家の初代の血を引く父と、戦国時代を駆け抜けた武将の血を引く母の血を引いているということになります。

幕末の混乱、時代の転換期にあたり、斉彬が薩摩の地から時代をリードできたのは、彼のリーダーシップによるものが大きいでしょう。

 

しかし、戦国武将の血を引いていることを考えれば、斉彬は生まれながらにして、カリスマ性のようなものを持ち合わせていたと考えることもできるのかもしれません。

 

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斉彬の死因

志半ばにして亡くなった島津斉彬ですが、その死因は何だったのでしょうか?

斉彬の死因は通説ではコレラにかかったことだとされてます。

 

しかし、その死が突然すぎたことから、暗殺されたのではないかという説があるのも事実。

当時の医師が亡くなる前の斉彬の状態を「心臓の異常な衰弱」と記しているのですが、これはトリカブトのような毒物を摂取した時にも見られる症状です。

 

そのため、斉彬と仲の悪かった父親の斉興が毒殺したのではないかという説もあります。

 

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