幕末の薩摩藩を支えた家老、調所広郷(ずしょひろさと)。

彼は当時、藩が抱えていた500万両(現在のお金で約2500億円!)もの借金を返済し、その上貯金にまで成功しました。

ただ、そのための手段を選ばなかったため、藩の危機を救ったスゴ腕の家老と呼ばれることもあれば、人々を苦しめた悪人と呼ばれることもある人です。

 

では、なぜそれほど調所広郷の評価が分かれるのでしょうか?

ただの悪人なのか凄腕の政治家なのか?

 

今回は調所広郷の行った改革や功績をひも解いていきます。

 

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茶坊主から始まったサクセスストーリー

調所広郷は貧しい下級武士・川崎家の次男として生まれます。

11歳の時に実の父親を亡くし、その後は調所清悦の養子となって、茶坊主として働き始めます。

 

 

茶坊主というのは、お城を訪ねたお客さんの身の回りの世話をしたり、お茶を出して接待したりする人。

頭をツルツルにそり上げていたので「坊主」が付いていました。

 

ここからが調所のサクセスストーリーの始まりで、茶坊主から茶道を担当する役割のトップである茶道頭、藩主の身の回りの世話をする小納戸役、お奉行様こと町奉行を経て、藩主と家臣の間を取り持つ係である側用人にまで出世を果たします。

 

元々貧しい下級武士の家の出身であることを考えると、この時点で十分な出世ですが、まだまだ調所のサクセスストーリーは続きます。

既に隠居の身でありながら、孫の島津斉興が藩主になっても実権を握り続けていた9代藩主・重豪(しげひで)が、調所を藩財政改革主任に抜擢したのです。

 

借金を返すだけじゃない!重豪の仰天指令

重豪が調所を藩財政改革主任に抜擢したのは、当時藩が抱えていた多額の借金を返済するためでした。

その額、なんと500万両。今のお金で約2500億円です。

 

どうしてこれほど借金がふくれ上がってしまったのでしょう・・・。

原因の一つは、他ならぬ重豪本人でした。

彼は教育や文化にとても理解がある人で、教育や研究のための施設をいろいろ作って、藩の発展に貢献しました。

 

ただ、それらを作るのに藩のお金をたくさん使ってしまい、その上に

 

  • 江戸の藩の屋敷が火事になる
  • 桜島が大噴火
  • 藩内のあちこちが風水害に見舞われる

 

などの不幸が続き、気づいた時には借金がとんでもない額になってしまっていたという訳です。

 

しかも重豪は斉興と一緒になって、自分が作った借金を返済させるというのに、それに加えて調所に更なる無茶ぶりをします。

それは「借金を返すだけではなく貯金もしろ!」「幕府に納めるお金を用意しろ!」「藩に何かあった時のためにお金を準備しておけ!」というもの。

 

無茶ぶりにも限度というものがあります。

しかし調所は、この無理難題に挑んでいくのです。

 

踏み倒しにお金もうけ!あっと驚く財政改革

借金を作った張本人から、とんでもない無茶ぶりをされた調所。

まずは一番の目的、借金返済からです。

 

調所は藩がお金を借りていた商人に「利子なしの250年ローン」という、ヤミ金もびっくりの話を持ちかけます。

これは元の借金1000両につき年4両を、250年かけて返していくというもので、最終的には踏み倒しを狙っていました。

 

お金を貸していた商人にしてみればひどい話です。

 

また、借金を返して貯金をするにはお金を稼がなければいけません。

そこで調所が目をつけたのは、奄美で作られている黒砂糖でした。

 

彼は奄美大島・喜界島・徳之島の3島で生産された黒砂糖を、全て藩が売るというアイデアを思いつきます。

サトウキビの栽培・黒砂糖の生産・保管・輸送・販売までを全て藩で管理することで、黒砂糖を販売するまでにかかる費用を節約。

その分お金をもうけるという方式で、これに違反した者は死刑などの重い刑罰に処されました。

 

ちなみに調所がお金を借りた商人に持ちかけた「利子なしの250年ローン」はどうなったのかというと、明治維新の後の廃藩置県(藩を廃止して府県を置くこと)で薩摩藩がなくなったため、彼のもくろみ通り、踏み倒すことに成功したのです。

 

う、うん。

ナイス調所広郷・・・・。

 

借金返済のためなら裏金作りに密貿易…調所、汚れ仕事に手を染める

借金踏み倒しの時点でなかなかのものでしたが、調所はお金を作るために手段を選びませんでした。

なんとニセ金作りにまで手を出したのです。

 

その上、当時薩摩藩が支配していた琉球を通して、幕府が許可した貿易にとどまらず、密貿易も盛んに決行。

結果的に藩は斉興の時代に約300万両の貯金に成功します。

 

ただし、この手段を選ばなかったことが、後に調所を悲惨な末路へと追い込むことになるのです。

 

自身は質素を貫くも…お由羅騒動で悲劇の死

借金返済や貯金のために汚れ仕事に手を染めながらも、自身は木綿の着物を着て質素であり続けた調所。

そんな彼は、斉興の次の藩主に正室の子・斉彬を推す一派と、側室の子・久光を推す一派が対立した、お由羅騒動で久光を推します。

 

しかし斉彬派に密貿易を行っていることを告発されて失脚。

最期は江戸の藩の屋敷で毒をあおり、自ら死を選んだのです。

 

藩が抱えていた途方もない額の借金を返しただけではなく、貯金をすることにも成功した調所ですが、黒砂糖の生産から販売までを藩が独占していた奄美では、島民が不当な扱いを受けていました。

 

薩摩藩の膨大な借金を返して300万両の貯金をしてしまうという点では優れた財務改革者。

しかし、手段を選ばなかったというてんでは悪人という評価。

 

これが調所の評価が分かれている理由です。

 

ただ、自身は質素な生活を送り続けた調所広郷。

手段を選ばなかったのは藩の借金を返済するという自分の役目を全うするため。

決して私利私欲のためではありません。

 

領民からは嫌われてしまったかもしれませんが、薩摩藩を立て直すという使命を忠実に遂行した名家臣でだったのだと思います。

 



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