会津戦争における白虎隊は悲劇で知られています。

それはまだ年若い、16~17歳程の少年たちが誤認して集団で自害した為です。

 

白虎隊は何故できたのか?

そして、なぜ隊士たちは自害したのか?

隊士たちにはどんな人がいたのか?

生き残った人はいたのか?

 

今回は白虎隊の悲劇に迫ってみます。

 

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なぜ白虎隊はできたの?

1868年京都の鳥羽・伏見を発端とする旧幕府軍と新政府軍の戦いが起こりました。

これが戊辰戦争です。

 

戦火は京都からどんどん北上し、会津藩(今の福島県)へと迫りました。

では、なぜ戦争が会津に迫ってしまったのでしょうか?

 

それには当時の会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり)が関係しています。

容保は大政奉還が起こるまで、京都守護職として幕府を倒そうとする(後の新政府軍になる)人達を取り締まる立場にありました。

 

この事から容保は『朝敵(ちょうてき)』と言われ、新政府軍の倒すべき相手だと捉えられてしまったのです。

 

会津にとってもこの朝敵という言葉はいわれの無い屈辱的な言葉です。

今まで幕府や朝廷を守るために必死で働いてきた容保は徹底抗戦の構えをとり、これが会津戦争へと繋がっていきます。

 

この時、会津を守る為に組織されたのが白虎隊。

白虎隊の他にも玄武隊、朱雀隊、青龍隊の4隊が組織されています。

 

白虎隊は16歳~17歳までの武家の少年たちが集まってできた隊です。

一番隊、二番隊と分かれて貧弱な武器を持たされた隊士たちは、会津を守る為にそれぞれ戦争の最前線へ送り込まれました。

 

なぜ白虎隊は自害したの?

白虎隊の隊士たちは鶴ヶ城が落城したと勘違いして、自害してしまいます。

では、なぜ自害することになったのでしょうか?

 

白虎隊の隊士で1人生き残った方がいるので、その方の証言を基にみていきましょう。

 

戦いに敗れた白虎隊は飯盛山中腹まで辿りつきます。

山の上から遠くの鶴ヶ城(つるがじょう)を見ると黒煙に包まれ市街は火の海。

 

とても勝てる状況だとは思えず、激戦による空腹と疲労と恐怖で一杯になり平常心を失っていた少年たちは「鶴ヶ城はもう敵の手に落ちた。生きて捕まって恥をさらすよりいまここで武士らしく死のう」となったそうです。

(鶴ヶ城は松平容保の本拠地。ここが落とされれば会津の負けが確定します)

 

また別のお話として、飯沼貞吉さんが生前に遺した「白虎隊顛末略記(びゃっこたいてんまつりゃくき)」によると、隊士たちは鶴ヶ城に戻って敵と戦って刀を交えようとする人と、新政府軍に殴り込みそのまま玉砕、自害を望む人との間で意見が割れてしまったそうです。

 

話し合いを行った結果、どちらにしても敵に捕縛され捕虜になって生き恥をさらすことが一番迎えたくない結末であった隊士たちは、城が焼け落ちていないことをわかっていながらも、武士の誇りの為に飯盛山で自害を決めたという説もあります。

 

自害の状況が唯一分かっているのが、生き残った飯沼貞吉(いいぬまさだきち)さんと篠田儀三郎(しのだぎさぶろう)さんです。

 

飯沼さんはお母さんから出陣の際に贈られた歌を読み上げ脇差で喉を突きました。

篠田さんは漢詩を吟じて刀を逆手にとり喉を突いて倒れたとされています。

 

白虎隊で生き残った人はいるの?

もう先に答えは出しちゃってますが、白虎隊で生き残ったのが飯沼貞吉さんです。

喉を刀で突きながらも奇跡的に一命を取り留めています。

 

 

この方が生き残ったおかげで現代まで白虎隊のお話が残っているといっても過言ではありません。

 

飯沼貞吉さんは飯沼時衛(いいぬまときえ)さんの次男として生まれました。

出陣のときにお母さんから歌を贈られます。

この時お父さんの時衛さんは既に戦線へ出陣しており家を離れていました。

 

出陣途中に家老の西郷頼母(さいごうたのも)の家に立ち寄りました。

頼母さんの奥さんの千恵子さんは時衛さんの妹で、飯沼貞吉さんからすると叔母さんにあたります。

 

西郷家で一家総出の見送りを受け出陣するも白虎隊はあえなく敗走。

飯盛山にたどりつきます。

 

自害すると決まった時、お母さんから贈られた歌を歌ったそうです。

「梓弓(あずさゆみ)むかふ先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)のみち」

そうして喉を思い切り突いて倒れました。

 

ですが何時間後かに印出(いんで)ハツさんという方に発見され息を吹き返しました。

飯沼貞吉さんは後に貞雄と名を改め逓信省の技師になり、1931年に78歳でその生涯を閉じています。

 



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