幕末、京都の治安を守るために活躍した新選組。

その中で2番組長、剣術師範を務めたのが永倉新八です。

 

新八は人生の前半を新選組隊士として危険な現場で戦い抜き、後半を剣術師範として生きました。

今回はそんな永倉新八の逸話を紹介します。

 

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永倉新八の人生を簡単に解説(略歴)

新選組2番隊隊長であり撃剣師範であった永倉新八は、江戸の松前藩の藩士の家に生まれました。

本姓は「長倉」という漢字で、のちに「永倉」に改名しています。

 

8歳で3代目岡田十松利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門した永倉新八は、剣の腕を磨くために脱藩して剣術修行の旅に出ます。

 

旅を終えて江戸に戻ってくると、剣客の伊庭秀業が主人を務める道場で師範代となります。

そこで道場の門下生だった島田魁と出会い、さらに近藤勇が指導をしていた天然理心流の試衛館に食客として入門。

 

この縁で新撰組に参加することになり、池田屋事件をはじめ数々の活躍を果たします。

 

1863年、将軍・徳川家茂の上洛に際して幕府が警護役として浪士組隊士を募ると、新八は近藤らとともに浪士組に参加。

名が新選組に改まった後は組織の中核として局長の近藤らを支えました。

 

しかし、世の中に新選組の名が広がり始めると近藤らの態度の変化に不満を覚え、新選組の親元であった会津藩主・松平容保に訴えました。

これによって幕府から見廻組隊士と同等の格に取り立てられました。

 

やがて幕府が劣勢に陥る中でも永倉新八の戦いぶりは変わらず、戊辰戦争や鳥羽伏見の戦いでは官軍の銃弾に刀のみで突撃をすることもありました。

敗戦が続いて江戸から米沢藩に滞留している最中に会津藩の降伏の知らせを受けて、彼は江戸へ帰還することを決意。

 

かつて脱藩したにも関わらず、剣の腕を買われて松前藩に保護をされ藩医の婿養子に。

元号が明治と改まると新八は妻とともに北海道小樽に移住しました。

 

数年後、警察官僚の月形潔に招かれ、集治監(刑務所)で看守に剣術を指導しました。

退職後、東京に出て道場を開き、後進の指導にあたりました。

 

1899年、再び小樽に戻ると東北帝国大学農科大学に招かれ剣術部で指導。

そして大正4年に虫歯により死去しました。

 

 

近藤や土方と違いもともと武士だった新八

新選組を構成する隊士の多くは、百姓や農民出身の身分でした。

局長の近藤勇や副長の土方歳三も例にもれず百姓と農民の出でした。

 

そのため彼らは、武士という存在に強烈な憧れを抱き、新選組という組織を通じて武士になろうとしました。

 

一方で新八のように武家出身の隊士も存在していました。

新八はあくまで剣術によって身を立てようと考えていたため、近藤たちの考えに疑問を抱いていきました。

やがて考えの違いが表面化し、関係修正が困難と見た新八は別の道を歩むこととなります。

 

池田屋事件での奮戦

長州藩士ら尊王攘夷派の武士が「御所に火を放ち、天皇の拉致を計画している」という情報を手に入れた新選組は、京都の旅館池田屋に突入し、尊攘派と激しい戦闘を繰り広げました。

 

20数人の尊攘派に対し、新選組はわずか4人(近藤勇、沖田総司、藤堂平助、永倉新八)、数の上では圧倒的に不利でした。

 

戦闘の最中に沖田は病を発症して戦闘を離脱。

藤堂も額を負傷して、まともに戦えない状態になります。

 

この時、新八も左手を負傷していました。

しかし、近藤勇とともに最後まで奮戦し、土方歳三の部隊が到着するまで持ちこたえています。

 

 

鳥羽伏見の戦いから会津戦争

鳥羽伏見の戦いが始まると新八は決死隊として新政府軍と戦いました。

その後、甲州勝沼で戦った後に靖兵隊を組織し、北関東で戦いました。

 

しかし、会津藩の降伏を知って戦闘を止め江戸に戻りました。

そして松前藩のとりなしで藩士に帰参した新八は、藩医の娘と結婚しています。

 

近藤勇にも意見する永倉新八の豪快な逸話

新撰組でも1~2位を争う剣の達人である永倉新八は、さすが!と思ってしまうつわものならではの数々の逸話が残っています。

そんな強い永倉エピソードのいくつかをご紹介します。

 

池田屋事件で名声を得た新撰組の中で、少しずつ局長の近藤勇の振る舞いが横柄になってくると、永倉新八は同じ考えを持った原田左之助、斎藤一、島田魁たちと一緒に、上司である松平容保に直訴をしています。

 

この件はのちに和解していますが、たとえ鬼と呼ばれた土方歳三や局長の近藤勇であっても、間違っていれば指摘する。

思ったことには目をつぶってはおけない、彼の性格がわかる行動です。

 

さらには、幕府が劣勢になり今後の身の振り方を相談しているときに、近藤が隊士を家臣のように扱ったことに憤慨して、ついに永倉新八は新選組を離れてしまいます。

 

また、晩年にも豪傑エピソードがあります。

明治の世になり、1914年に日清戦争が勃発すると、昔の血が騒いだのか永倉新八は出兵を志願します。

この時の年齢は55歳。

 

明治政府はこの年齢を理由に彼の志願を認めず、日清戦争に参加することはありませんでしたが、新八自身は参加する気満々だったようです。

 

孫との穏やかな晩年

新八が孫と過ごした晩年は、新選組という存在が既に歴史の一部となっていました。

新八は家族に新選組のことや自分の若いころのことをあまり語らなかったようです。

 

そして、口癖のように「自分だけ長生きしてしまい隊士のみんなに申し訳ない」と言っていたと伝わります。

そんな新八を孫は一種のホラ吹きのように思っていたらしく、深くは考えていませんでした。

 

そんなある日、新八と映画館を訪れた孫は地元のヤクザに因縁をつけられてしまいます。

孫があまりの恐怖に震えていると、新八は「後ろに下がっているように」と伝えて、鋭い眼光でヤクザと対峙します。

 

そして体全体に殺気をまとって気合を入れると、あまりの気迫にヤクザは逃げていったと言います。

 

その姿は口癖で言っていた新選組そのもの。

このことをきっかけに孫は、新八の偉大さを知ったようです。

 

 

新撰組の生き残りとして「新撰組顛末記」を制作

明治維新まで生き残った永倉新八は、新撰組の名誉回復のために回顧録「新選組顛末記」を残しています。

 

永倉新八の話を小樽新聞社の記者であった吉島力が執筆し、この記事は1913年3月17日~同6月11日にかけて、「新撰組 永倉新八」というタイトルで『小樽新聞』に連載されていました。

 

現代のようにテープレコーダーなどもなく完全に聞いて書いたものなので誤記もあり、また永倉新派地が晩年に口述したものなので彼の記憶違いなども含まれている可能性も考えられます。

しかし、生々しい証言が数多く残されている貴重な歴史の遺産です。

 

小樽新聞での連載後、永倉新八の長男である杉村義太郎氏が永倉の十三回忌を機に、編集発行されていた『新撰組永倉新八』を改題して出版されました。

 

目次は、

 

  • 浪士組上洛
  • 新選組結成
  • 池田屋襲撃
  • 禁門の変
  • 高台寺党粛清
  • 鳥羽伏見の激戦
  • 近藤勇の最期
  • 会津転戦
  • 新選組資料

 

といったもの。

最後の最後でリアルな新撰組像を残してくれたことは、後世の私たちには本当にありがたいことです。

 

新選組の名誉回復!近藤勇や土方歳三の墓を建てる

JR板橋駅からすぐの場所に近藤勇と土方歳三の名が刻まれた墓標があります。

この墓を建立したのは他でもない永倉新八。

 

徳川家茂の元侍医だった松本良順と共に建てたのだそうです。

この板橋の地は近藤勇が捉えられ斬首刑に処された板橋刑場跡でした。

 

遺骨が埋められているものではないのですが、墓標には「近藤勇と新撰組隊士供養塔」と書いてあります。

喧嘩別れをしたとはいえ、最後まで新撰組の復権に努めていた彼のまっすぐな気持ちが伝わります。

 

また、北海道では東北帝大農科大学(現在の北海道大学)の演武場で学生たちの指導をしていました。

年老いた彼は指導の途中で倒れてしまい、馬車に乗せられて帰宅したことも。

 

老いて尚、その剣でできることを見つけて力を尽くしていた、温かくも熱い心が伝わる永倉新八らしいエピソードです。

 

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