長州藩には元々、才気に富む若者を大切にする風土があります。

 

そんな若者たちに力を貸した人物が、周布政之助でした。

 

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藩政の中心人物

大組士の出身で、明倫館に通っていたころには都講と呼ばれるいわゆる生徒会長を務めるほどでした。

村田清風の後を継ぎ、政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に取り組みます。

 

萩城

 

藩論は、保守派と革新派に分かれており、革新派である周布は尊王攘夷を掲げていました。

その中で松陰や松下村塾関係の若者たちを多く取り立てていきます。

 

周布に甘えっぱなしの若者たち

若者たちは時として暴走することもありました。

ある日松陰は周布に、「老中、間部詮勝を暗殺したいので許可をください」と手紙を出します。

 

さすがの周布も驚き、松陰を投獄します。

この件が幕府の耳に入り処罰を受けないように、松陰の身を案じてのことでした。

 

次は晋作が、藩政務役・長井雅楽の暗殺を計画していると周布の耳に入ります。

その時、ちょうど幕府が上海への派遣団の参加者を募っていたため、これに晋作を推挙します。

 

晋作は計画そっちのけで、喜んで上海に出かけて行くのでした。

松陰も晋作も周布がいなければ、何度命を落としていたことでしょう。

 

次から次へと若者たちの暴走の尻拭いに、周布はきっと胃を痛めていたに違いありません。

 

酒癖の悪さ

周布は土佐藩主・山内容堂を酒に酔った勢いで中傷し謹慎処分なったことがあります。

また、野山獄に刀を振り回しながら乱入したこともありました。

 

この時は晋作が投獄中で、燻っている晋作に激励を送るためだったとされます。

これもまた酔った勢いでの出来事であり、またもや謹慎処分になるのでした。

 

こうして見ると周布もまた、若者たちに負けない過激な人物だったように思えてきます。

 

周布の最期

周布は、禁門の変や長州征伐の収拾に奔走しますが、結局、別派閥に実権を握られたこともあり、責任を負い自刃することになります。

 

長州の若者のために奔走した周布の悲しい最期でした。

しかし後に、晋作のクーデーターが成功し、実権を取り戻すことになります。

 

松陰を始めとした若者が、表舞台に出ることができたのは周布のおかげと言って過言ではありません。

もしかすると周布自身も、若者たちに大きな夢を託していたのかもしれませんね。

 

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