公武合体派の山内容堂が藩主の土佐藩にあって、最後まで尊皇攘夷の志をつらぬいたのが武市半平太という人物。

坂本龍馬や中岡慎太郎とも親交が厚く、彼らの兄貴分とも言える存在でした。

 

きわめて律儀でまじめな性格で、周りから見るとかなり堅物で付き合いづらい人物のようでしたが、一時は土佐藩を動かすような地位まで登りつめます。

 

最後は明治維新を待たずして土佐藩で処刑されてしまいますが、武市半平太の果たした役割は間違いなく時代に変革をもたらしています。

そこで今回は、半平太の波乱の活躍を振り返ってみましょう。

 

本名は武市瑞山(ずいざん)なのですが通称の半平太のほうが呼びやすいので、今回は半平太で統一して紹介します。

 

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土佐藩の身分制度

半平太の人生には土佐藩の身分制度が大きく関わってきます。

江戸時代の幕藩体制の中でも土佐藩は身分制度の非常に厳しい藩でした。

 

関が原の戦いで勝利した徳川家康は、土佐に勝利に貢献した山内一豊を新たな藩主として送り込みますが、元々四国を治めていた長宗我部氏の抵抗が激しく、厳しい身分差別で強引に統治を行ないました。

 

それ以来、明治維新を迎えるまで土佐藩には同じ侍の中でも身分差別が存在し続けることになったのです。

 

身分制度は大きく上士と下士に分けられます。

上士は山内家の家臣一族で、下士は長宗我部氏らの一族および土豪の士となります。

 

上士と下士の差別は徹底していて、下駄や日傘の使用さらには袴の着用などは上士にしか許されていないほどでした。

 

さらに下士の中でも

 

  • 白札
  • 郷士
  • 徒士
  • 徒士格
  • 下席組外
  • 古足軽
  • 足軽
  • 下足軽
  • 庄屋

 

と細分化されていて、武市半平太の家柄は白札であり、下士の中でも白札は上士に順ずる地位でした。

ちなみに、坂本龍馬の家柄は、もともとは商家なのですが郷士の身分を買い取ったとされています。

 

この身分制度が土佐藩の倒幕運動の引き金となっていく最大の要因となりました。

 

 

桂小五郎や久坂玄瑞との交流

白札郷士の家柄に生まれた半平太は若い頃から才気煥発。

学問にも剣術にも秀でている優秀な人物でした。

 

武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像

左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像

 

24歳の時に高知城下に剣術道場を開き、その名声から120人以上の門下生が集まりました。

その中には中岡慎太郎や岡田以蔵らも名を連ね、後の土佐勤王党の母体となって行きます。

 

26歳の頃には江戸で剣術の修行をしながら、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞などと親交を深めています。

そして、半平太はこの頃から尊皇の志を抱き始めます。

 

半平太の立ち上げた土佐勤王党とは?

長州藩士と親交を深める中で、半平太は土佐藩では尊皇攘夷運動が遅れている事を実感します。

そこで、土佐勤皇党という尊攘運動を推進する活動を開始しました。

 

この活動には坂本龍馬や中岡慎太郎なども加わり、土佐藩の中では無視できない勢力となっていきます。

 

しかし、土佐藩内では藩主山内容堂の信頼の厚い吉田東洋が藩政改革を進めていて、幕府を倒して朝廷を重んじる尊皇攘夷ではなく、幕府と朝廷が一体となって国を動かし、諸外国に開国をする公武合体の方向で藩論がまとまりつつありました。

 

下士の半平太は吉田東洋に重んじられず、土佐勤王党の考えは藩論と対立する方向でもあったので思うように活動をすることができません。

そこで、半平太は土佐勤王党のメンバーを利用して吉田東洋を暗殺してしまいます。

 

その後、開国・公武合体派を追い出し、土佐勤皇党に近い家臣を要職に就けることに成功。

半平太は事実上、土佐藩政を掌握し、自らは京都に赴いて尊皇攘夷運動にまい進することになります。

 

しかし、忘れてはならないのは暗殺した吉田東洋は藩主・山内容堂の信頼の厚かった人物であるということ。

半平太の京都への進出は、過激な土佐勤王党から半平太を引き離すための容堂の策略だったとも言われています。

 

 

岡田以蔵の毒殺に失敗して処刑へ

京都に進出した頃の半平太は、人生の中でも絶頂期を迎えていたといえるでしょう。

山内容堂の真意を見抜けなかった半平太は、容堂の信任が厚いと思い込み尊皇攘夷運動をますます盛んに行っていきます。

 

しかしその裏で、山内容堂は吉田東洋の暗殺の犯人探しを命じ、土佐藩内では過激な土佐勤皇党のメンバーに対して他藩との交流を禁じていきます。

 

この頃、京都では八月十八日の政変、禁門の変と相次いで政変がおこり、尊皇攘夷の先鋒であった長州藩は一気に勢いを失うことになります。

 

これにより、容堂は京都での存在価値の無くなった半平太を土佐に呼び戻し、吉田東洋暗殺の容疑で捕らえて投獄します。

 

最後まで暗殺を否定していた半平太ですが、実行犯の岡田以蔵らが自白。

これは半平太が自白を恐れて毒殺しようとしたことに腹を立てての自白であったという説もあります。

 

これが事実であれば、ここでも自分本位の半平太の性格が裏目に出てしまったことになります。

 

 

武市半平太の最期!三文字の切腹

岡田以蔵の自白により犯人となった半平太は、白札郷士であったために打ち首ではなく切腹を命じられます。

武市半平太は、人並み外れて優秀で意志の強い人物であったようですが、その意志の強さゆえに他者を寄せ付けず、切腹となる最後まで自らの正しさを疑わなかったようです。

 

そして、半平太の切腹は通常の切腹と異なり、腹を三文字に斬るものでした。

これは武士としての意地や信念を見せつけるためのもの。

 

半平太は無念の思いをこの切腹の方法で表現したのかもしれません。

もちろん腹を三文字に斬るというのは相当な精神力がないと出来ないことで、半平太は前のめりに倒れたため、介錯ができずに横から心臓を刺されて息絶えたそうです。

 

あまりにも過激な土佐勤皇党の活動でしたが、その中から坂本龍馬や中岡慎太郎のような志士が生まれ、明治維新への礎となったことは間違いありません。

 

半平太の存在が無くなった土佐藩は、倒幕の流れに乗り切れず、維新後も政治の中心に立つことはできませんでした。

明治維新をむかえた後、山内容堂は「武市半平太を殺すべきではなかった。」と悔いたとも言われいます。

 

もし、武市半平太という人物がこれほど自分本位ではなく、もう少し人望があって他者と融和できる人物であったなら、変革の中心に立てたのかもしれません。

 



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