新撰組の名前を天下に知らしめた池田屋事件。

京都の治安維持に努める新撰組にとって、京都が火の海になる事を防いだこの池田屋事件はとても意味のあるものでした。

 

今回は池田屋事件に至るまでの経過と池田屋での戦いの様子を書いていきたいと思います。

 

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池田屋事件の経緯

新撰組が京都での不逞浪士の取締りをしている中で、肥後藩の浪士・宮部鼎蔵の潜伏先を突き止めます。

 

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その場所は桝屋(ますや)という、たきぎや炭などを売っているお店で、新撰組は宮部鼎蔵を捕えるべく、桝屋に出動します。

新撰組が踏み込んだ時に、宮部は桝屋にはいませんでしたが、桝屋の地下室から大量の武器や火薬を発見。

 

そのため、主人である古高俊太郎を捕縛し、宮部や大量の武器の事について取り調べることにします。

 

宮部鼎蔵の計画

新撰組の屯所でもなかなか口を割らない古高俊太郎。

業を煮やした副長の土方歳三は、苛烈な取り調べを行い、遂に古高から不逞浪士達の計画を聞き出します。

 

その内容は、6月の風の強い日に京都の町に灯を放って、その混乱の中で京都守護職の松平容保を討ち、天皇を長州へ連れ去るというものでした。

 

新撰組が治安維持を努める京都の町が火の海になるだけでなく、主である松平容保の命の危険、そして天皇をも巻き込もうという計画に局長の近藤勇も唖然としたと言います。

しかも、その計画実行のための同志が40人程度京都に潜伏していて、その中には8月18日の政変以降、京都に入る事を禁じられている長州の志士も交じっているとの事。

 

そして、計画実行のための会合が近々行われる事も分かり、新撰組としてもは時間がない中で、何としても計画を阻止しなければいけない状況になります。

 

新撰組の出動

この計画を知った近藤勇は即行動に移します。

近藤勇は新撰組の隊を2つに分け鴨川の西と東に分かれて不逞浪士達の集まる場所を探すことにします。

 

近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助など腕の立つ隊士で編成した10名は鴨川の西を。

土方歳三、斎藤一、井上源三郎ら24人は鴨川の東を担当。

 

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家々を片っ端から調べ上げ、市中を探索していきます。

そして、三条小橋近くの池田屋に近藤隊が到着します。

 

池田屋での戦い

御用改めとして池田屋に踏み込んだ近藤勇。

主人が2階にいる浪士達に大声で御用改めである事を伝えたため、近藤勇は2階へ駆け上がります。

 

池田屋の座敷には20人くらいの浪士がいましたが、裏庭に飛び降り逃走するものもいたため、2階は沖田総司に任せて、近藤は1階に下りて逃げた浪士を追います。

 

近藤隊は10人でしたが、池田屋内部に踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人。

しかし、2階で奮戦していた沖田総司は労咳のため吐血して戦闘不能状態、藤堂平助は額を切られる重傷を負い、戦える状態ではありませんでした。

 

裏庭を守っていた3人の隊士も浪士に敗れ、新撰組は明らかに劣勢。

しかし、近藤勇は、指を負傷していた永倉新八と2人で池田屋内の浪士と対峙し、次々に討ち取っていきます。

 

土方隊が到着

そこに鴨川の東側を探索していた土方歳三が到着。

土方隊の到着で新撰組はいっきに息を吹き返します。

 

この時、土方隊の隊士が大勢2階に駆け上がったため、2階の床が抜け落ち、転落してきた浪士を武田観柳斎が斬っています。

この戦いで多くの志士が討ち取られ、京都を火の海にしようとした計画は水泡に帰します。

 

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その後新撰組は朝まで京都市中の取り締まりを続け、多くの志士を捕縛しています。

新撰組が屯所に帰る道は多くの見物客であふれ、新撰組の屯所の主・八木源之丞は「赤穂浪士が仇討ちをして凱旋している時はこんな感じだったのだろう」と語っています。

 

この池田屋事件では新撰組に死傷者がでる激戦となりました。

しかし、池田屋に最初に踏み込んだメンバーの中で、唯一、近藤勇だけは大きな負傷もなく戦い抜いたとされています。

 

以前の「新撰組で最も強かったのは!?最強に名を連ねる隊士達!!」でも書きましたが、この時の近藤勇の胆力には、ずば抜けたものがあったようです。

 



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