西郷隆盛を慕い続けた村田新八の生涯と最期!

西郷隆盛とともに西南戦争を戦った村田新八。

身長は180センチと長身で、残っている写真を見ると、『ネクタイ+スーツ姿+立派なヒゲ』という、おしゃれポイントをおさえたイケメンでした。

 

もちろんおしゃれなだけでなく、武士(政治家)としての資質も一流。

新撰組と斬り合いをしても負けない武力と、西郷が常に頼りにするほどの智略を持ち合わせている人物でした。

 

そんな村田新八は、西郷隆盛とともに西南戦争で命を落とすことになるのですが、なぜ隆盛と運命を共にすることになったのでしょうか?

今回は西郷の頼れる参謀・村田新八について詳しくみていきましょう。

 

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島津久光に誤解され…隆盛と一緒に島流しの刑に

村田新八は9歳年上の隆盛を兄のように慕いながら育ちました。

 

 

隆盛は薩摩藩主・島津斉彬に見出されて側近として抜擢。

一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍にするために、斉彬の命を受けて活動しています。

 

しかし、斉彬の思い描いた通りには進まず、徳川家茂が14代将軍に就任。

斉彬は「家茂様が将軍になったのはいかがなものか」と意見を述べるため、京に上る準備を始めまが、その最中に急死してしまいます。

 

その後、藩主を継いだ島津忠義の父・久光(斉彬の母違いの弟。忠義の後見人を務めていた)が、斉彬の代わりに京に上ることになるのですが、この時、前もって段取りをつけておくために、先に京に上ったのが隆盛と新八でした。

 

しかし、どうしてそうなったのか、隆盛と新八は「薩摩の攘夷過激派(外国人を絶対に日本国内に入れないぞ!オーッ!とめちゃくちゃテンションが高い人たち)の気持ちをあおったと、久光に誤解されてしまいます。

その結果、新八は隆盛と同じく島流しの刑に。

隆盛は沖永良部島に、新八は喜界島に流されてしまいます。

 

新八が薩摩に戻ることができたのは2年後。

それも先に罪を許された隆盛が、新八を独断で連れて帰るという形で本島に戻っています。

 

やはり隆盛にとって新八はなくてはならない人物だったようです。

 

明治維新の後は岩倉使節団に加わって欧米へ

明治維新の後、新八は岩倉具視を代表とする使節団に加わって欧米へと旅立ちます。

この使節団は幕末に欧米の各国と結んだ不平等な条約を改正するための交渉をすることが最大の目的でしたが、同時に日本より発展している欧米を視察して、今後の政治に生かすという目的もありました。

 

使節団の人数はなんと108人。

新八と同じ薩摩出身の大久保利通や、長州の木戸孝允、そして後に初代内閣総理大臣に就任する伊藤博文などの政治家とともに、津田塾大学の創立者である津田梅子(当時満6歳!)などの留学生も同行していました。

 

欧米に渡った新八は、旅先でアコーディオンを買い求めます。

新八がアコーディオンを大切にしていたというのは有名なエピソードで、西南戦争の時も戦場に持ち込んで演奏していたといわれています。

 

またパリに滞在していた時は、オペラ座に何度も行っていました。

このように欧米の文化を楽しんでいた新八ですが、彼が日本にいない間、国内の政治は大変なことになっていたのです。

 

隆盛を追って鹿児島へ…私学校の設立

使節団が欧米に滞在している間、日本に残っていた隆盛は他の政治家と征韓論について議論していました。

征韓論というものは隆盛を語る上で外せないものなので、一旦整理してみましょう。

 

征韓論を簡単に言い表すと、「鎖国してる朝鮮を武力で開国させよう」という考え方。

 

明治新政府は、ずっと朝鮮の国王に国同士の交流をしたいと働きかけていましたが、朝鮮は江戸時代の日本のように鎖国をしており、新政府の要請を断り続けていました。

これに国のプライドを傷つけられたと感じた新政府の中で、朝鮮についていろんな意見が出てきます。

 

そんな中で隆盛はまず自分が代表として朝鮮に渡り、交渉が上手くいかなかった時には日本から兵を出すという提案をしました。

これが征韓論と呼ばれるもので、西郷たちは欧米に侵略されないように、朝鮮を開国させて日本の防衛ラインにしようと考えていました。

 

一度はそれで新政府内の意見がまとまったのですが、欧米から帰ってきた大久保や岩倉などがこの提案に強く反対したため、新政府内がギクシャクしてしまいます。

こんな状態がしばらく続いた後、遂に隆盛は新政府での地位を捨てて、鹿児島に帰ることを決断します。

 

欧米から戻ってきた新八は、隆盛が鹿児島に帰ったことを知って、自らも鹿児島に帰ります。

ずっと隆盛を兄のように慕ってきた新八にとって、隆盛と離れるという選択肢はなかったようです。

 

逆に大きなショックを受けたのが大久保利通。

大久保は共に欧米を視察した新八なら、隆盛が鹿児島に帰っても新政府に残ってくれるだろうと思っていました。

しかし、そんな大久保の期待とは裏腹に鹿児島に戻った新八は、隆盛が創立した私学校で生徒の指導に取り組みます。

 

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西南戦争での最期

西南戦争が始まると、新八は西郷軍の2番大隊長として各地で戦います。

しかし西郷軍は敗北を重ね、鹿児島の城山に追いつめられてしまいます。

 

生き残った兵たちは死を覚悟する一方で、何とか隆盛だけは助けたいと意見を交わします。

その結果、新八が代表して隆盛の説得に動きます。

 

しかし隆盛は「この戦争でたくさんの人間が死んだのに、自分だけが生き残るだけにはいかない」と降伏を拒否。

その後、新政府軍の総攻撃が始まると、隆盛はお腹と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯で自刃します。

 

では、隆盛の最期を見届けた新八はどうしたのか?

新八は隆盛亡き後も戦い続けますが、戦いに勝ち目がないことを悟ると、自ら命を絶っています。

 

勝海舟が認めた村田新八の評価

新八の死を知った勝海舟は村田新八を「大久保利通に亜ぐ傑物なり。惜哉、雄志を齎して非命に斃れたることを」と評価しています。

意訳すると、「村田新八は大久保利通に次ぐ優れた人物だ。雄大な志をもたらし、天寿を全うする前に死んだことが惜しい」という意味です。

 

日本より進んでいる欧米を知っていたにもかかわらず、最後は新政府と対立して、兄のように慕う隆盛と共に西南戦争を戦った新八。

彼はどのようなことを思いながら自刃したのでしょう?

 

 

村田新八は今、隆盛と同じ鹿児島市上竜尾町の南洲墓地に眠っています。

 

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