理想主義と現実主義は往々にして相容れないものだとよく言われます。
戦国時代にも理想を掲げる理想主義者のような人はいましたが、やはり時代の波や戦国乱世の無法などを目の当たりにして大抵は現実主義に流れていってしまう人物が多いような気がします。
その中で今日の主人公・三淵藤英(みつぶち ふじひで)はあくまで理想主義者たろうとしたものの家族からは理解されなかった人物と言えるかもしれません。
なぜ彼は理想主義者となったのか?
理想主義を追い求めた結末はどうなったのか?
今回は大河ドラマ「麒麟がくる」で谷原章介さんが演じられている三淵藤英という人物の人生を見ていきましょう。
室町幕府の幕臣の子供として育つ
三淵藤英は室町幕府の幕臣・三淵晴員の息子。
晴員は細川藤孝のお父さんにもあたるので、藤英は苗字こそ違うものの藤孝の兄ということになります。
(藤孝は細川晴広のもとへ養子へと送られたため細川姓)
生まれた年はわかっていませんが、細川藤孝が生まれたのが1534年なので、それより少し前……おそらく1530年前後ほどではないかと予想することができます。
藤孝は信長と同級生なので年齢的には信長の兄くらいの年齢と言い換えられます。
もちろん養子に出されたとは言っても藤孝も藤英もともに幕臣。
1540年には御部屋衆(あるいは奉公衆)として三淵弥四郎(藤英の幼名)の名がしばしば記録されています。
おそらくこの頃推定10歳ほど……非常に若い頃から幕府のために働いていたのがわかります。
しかし、伊勢貞孝の反乱後史料に登場しなくなります。
その理由は不明ですがこの反乱に加わってまつりごとから遠ざけられていたのではないかと言われています。
しかし、ある事件が藤英を中央の政治に呼び戻すことになるのです。
足利義輝の後継者には何としても義昭を!
1565年、松永久通が三好三人衆らと組んで時の将軍・足利義輝を暗殺した「永禄の変」という事件が起こります。
将軍が暗殺されるというのは、現代でいえば総理大臣が暗殺されるようなもの。
はっきり言って尋常とは言えない事態です。
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この出来事に藤英も藤孝もショックを受けますが、二人の発想はすぐに「次の将軍は誰がなるべきだろうか」というベクトルになり、そしてひとつの結論に達します。
「次の将軍は覚慶様(のちの足利義昭)が良いのでは?」
2人は興福寺一乗院というお寺で僧侶を務めていた、覚慶(足利義昭)を還俗させて次期将軍にしようと考えます。
しかし覚慶は暗殺された義輝の弟なので、三好三人衆たちもこれを警戒し、すでに覚慶を興福寺一乗院に幽閉していました。
その覚慶を一色藤長や和田惟政と共に脱出させた藤英は覚慶を足利義昭(義秋)と名乗らせると、京に帰還させ将軍にすることに尽力します。
織田信長との接触
京都にのぼるにあたって重要なのは、どの大名を後ろ盾として選ぶかでした。
そこで藤英は戦国大名の中から二人候補を絞り込みます。
一人が越後の大名の上杉謙信。
謙信はこの時代には珍しく、幕府の権威や秩序を重んじる人でした。
12代将軍だった足利義晴とも懇意だったので、他の大名よりも信頼が置けます。
ただ、本拠地の越後までの距離が遠いのに加え、謙信は北条氏康や武田信玄などと戦っている最中で、すぐに動くのは無理でした。
そこで新たな後ろ盾として選んだのが織田信長です。
永禄の変が起きた1565年、藤英の弟藤孝が、上洛の支援をして欲しい旨を信長に知らせたところ信長は「いつでも上洛にお供する」と前向きな回答でした。
この頃の信長は美濃の攻略も終わっていない状況で、すぐに支援できる状態ではありませんでしたが、1567年に稲葉山城を落城させると、1568年の9月に義昭を奉じて京都にのぼります。
道中、六角氏や三好三人衆を蹴散らしながら京に到着し、義昭は念願の将軍就任を果たします。
形はどうあれ義昭が将軍となったことにホッと胸をなでおろした三淵藤英。
彼自身も大和守になり、奉公衆の一員として弟の細川藤孝とともに足利義昭に仕えることになります。
信長についた藤孝との対立
その後藤英は主に藤孝とともに幕臣として働くことになります。
1569年に三好三人衆らが御所を襲った「本圀寺の変」。
そして六条合戦においても弟の細川藤孝や明智光秀とともに戦い、御所を守り抜いています。
しかしこの1569年以降、これまで協力関係にあったはずの織田信長と足利義昭の間に確執が生じ始めます。
義昭を思い通りに動かそうとする信長とそれを嫌う義昭の間の対立が徐々に表面化するのです。
ついに義昭は1573年信長包囲網の結成を各地の諸大名に呼びかけ、自身も挙兵します。
しかし実はこれよりも前に弟の藤孝はこのことを信長に報告しており、実際には早い段階で義昭の思惑は信長に露見していました。
つまり、藤孝は早々に義昭を見限って信長側につくという立場を明確にしていたのです。
しかし藤孝の裏切りとも取れる行為に藤英は激怒。
藤孝のいる勝竜寺城を攻撃する計画も立てるなど、兄弟で一触即発の状況になります。
影響力が衰えたとはいえ室町幕府の将軍である足利義昭に付くか?
それとも新興勢力の織田信長に付くか?
この時期は幕臣たちにとって、どちらに付くかというのが悩みの種だったようです。
例えば幕臣の和田惟政も最終的には信長につくことを決心するものの、義昭側に付いた池田知正との戦いで命を落とすなどちょっとかわいそうな最期を遂げています。
そんな中で弟の藤孝は真っ先に義昭を見限って信長についたのに対し、藤英は義昭についた。
ほぼ同じ境遇を歩んできた二人の判断はここで分かれてしまいました。
槙島城の戦いから不可解な死まで
信長についた藤孝と義昭についた藤英。
結果からいうと、正解だったのは細川藤孝でした。
信長との対立が決定的になると義昭は槙島城で挙兵します。
藤英も二条城にこもって信長と戦っていましたが、柴田勝家に説得されて降伏。
信長が7万の軍勢で義昭を攻めると、槙島城も落城してしまいます。
義昭は京都を追放されることになりますが、信長は藤英を処罰しようとはせず、これ以降は織田信長の家臣となります。
この後、岩成友通と戦ったりもしていますが、早くから信長に従った藤孝とは違い、ずっと義昭に従っていた藤英。
織田家では重用されることがなかったのか、これ以降は藤英の名前は記録からしばらく姿を消します。
次に藤英の名前が登場するのは翌年の1574年5月。
信長による三淵家の居城・伏見城の破棄命令と三淵藤英への切腹命令により息子の三淵秋豪とともに切腹したという記述です。
なぜ突如このような処分を命じられたのか詳しいことは分かっていません。
信長が幕府勢力の一掃を目論んだのか、あるいは記録にはないものの藤英が再度信長に対する謀反を企てたのか……。
もしかすると、義昭の下では大活躍だった藤英が、織田家に来て活躍の場を失ったことに不満を募らせていたのかもしれません。
真相は歴史の闇の中ですが、信長が切腹を命じるような出来事があったことだけは事実です。
藤英は足利義昭を15代将軍にした最大の功労者ですが、義昭の没落と同じように歴史の表舞台から姿を消すことになってしまいます。
弟の藤孝のように、色々な武将に上手く立ち回る事ができなかった・・。
主君を何度も変えた藤孝と違い、藤英は忠誠心の強い一本気な戦国武将だったのかもしれませんね。
なお、長男の秋豪は切腹させられたものの藤英の次男光行はこの後、弟の細川藤孝が預かって養い、三淵の名前を江戸時代にまで残すことになります。
まとめ
細川藤孝は時代に合わせて仕える相手を変えた、世渡り上手な武将としてよく知られています。
しかし、それも理想主義者の三淵藤英からすれば理解はできなかったかもしれません。
現に藤英は藤孝に対し攻撃する準備さえしていたきらいがあり、下手をすれば兄弟で戦うことになっていたのです。
ですが藤英は、この時代失われかけていた絶対的な正義心を持っていました。
最終的には信長により自害させられてしまったものの、彼の正義心は誰にも屈することなく忠節を保ったと言えます。
そんなことを考えながら、ドラマの藤英はどのように活躍するのか。
それを楽しみに見ています。