室町幕府の13代将軍・足利義輝。
義輝は将軍でありながらバリバリの剣豪でもありました。
「将軍だから待ち上げられてるだけでしょ?」と思うかもしれませんが、義輝の場合はガチのガチ。
剣聖とされた塚原卜伝(ぼくでん)や上泉伊勢守から指南を受け、卜伝からは「一の太刀※」という奥義を授けられています。
※たぶんドラクエで言えばギガブレイク(ギガスラッシュ)くらいの必殺技。
そして三好三人衆に攻め込まれた二条城では、敵に囲まれながらも畳に刺した複数の刀を使いながら自ら奮戦するという剣豪らしい最期を遂げています。
現代でも「義輝ってめっちゃかっこよくない?」というファンは多数。
知名度では足利尊氏や足利義満に負けますが、コアなファンの多さでは足利将軍で1番かもしれません。
今回はそんな義輝について詳しく見ていきましょう。
足利義輝の苦難と波乱の生涯を簡単に解説!
【出身国】山城国(今の京都府)南禅寺にて
【生没年】1536~1565年 享年29歳
【主な経歴】室町幕府第13代将軍
【簡単にまとめるとこんな人】
- 室町幕府の第13代の将軍・少年~青年時代は逃亡を繰り返して育つ
- 剣聖から奥義を伝えられるほどの剣の達人。
- 最後は畳に刺した刀を取り替えながら奮戦。非業の死を遂げる。
- 宣教師ルイス・フロイスが「武勇に優れて勇気のある人だった」と評している
足利義輝は第12代将軍足利義晴の嫡男として生まれます。
幼名は菊童丸。
当時の室町幕府は将軍の権威が非常に弱く、細川氏など管領家や有力大名たちの庇護がなければ立ち行かない状態でした。
特に細川氏の勢力は絶大で、将軍家をないがしろにした細川氏を追討するため軍を興しても戦うたびに敗戦。
敗走しては追手が来ない近江国(今の滋賀県)の山奥へ逃げ込む始末でした。
そんな鬱屈した状況に飽いた義晴は、1546年に義輝に将軍職を譲ります。
わずか11歳で将軍となった義輝ですが、彼を取り巻く状況は芳しくありません。
重臣の三好長慶との戦いで敗れた細川晴元は没落しましたが、今度は三好長慶が義輝に敵対しました。
幾度も城を築いて京都へ進出する機会を伺いましたが、どうにもうまくはいきません。
ところが1551年になって状況は一変。
長慶側から和睦の手が差し伸べられます。
長慶にとっても長期にわたって将軍が不在なのでは具合が悪いと考えたのでしょう。
これ以降、長慶は幕府御供衆として列することになります。
しかし反骨心の強い義輝は、この後も長慶と反目しては戦い、近江へ逃れるということを繰り返しています。
1558年、再び帰京した義輝は今度こそ腰を落ち着けて政務に励みました。
何とか昔日の将軍権威を取り戻そうと躍起になろうとしていたのです。
この時期、ますます権勢を増す長慶と、将軍親政を目指す義輝の不思議な二頭体制が出来上がっていました。
しかし1564年に長慶が亡くなると、またもや義輝は窮地に立たされることになりました。
ロボットのように自在にコントロールできる将軍を擁立するべく、三好三人衆や松永久秀の息子久通らが、義輝を排除しようとしたのです。
将軍親政を目指す義輝は邪魔な存在だったということですね。
1565年5月、万を超す軍勢に十重二十重に取り囲まれた将軍御所は、たいした抵抗もできないまま蹂躙されました。
義輝もまた討たれ、「永禄の変」と呼ばれたこの事件は世間を震撼させたのです。
義輝の目指していた将軍親政とは
室町幕府の特徴として、将軍という存在は有力大名たちとの絶妙なバランスの元で成り立っていたと言えます。
それゆえ歴代将軍たちも、なんとか有力大名たちの力を抑え込もうと躍起になっていました。
義輝もまた将軍親政(将軍が自ら政治をすること)を目指したわけですが、その見本となったのが3代将軍足利義満です。
義満は絶大な将軍権威をバックに武力をも兼ね備えた存在でしたが、義輝もまたその姿を理想像としたのです。
時は戦国時代真っただ中。
義輝は戦い続ける戦国大名の仲裁役として将軍権威の向上を図りました。
- 武田晴信と長尾景虎(のちの上杉謙信)
- 伊達稙宗と晴宗親子
- 毛利元就と大友宗麟
など、まさに名だたる戦国群雄たちの調停を買って出たのです。
戦いをやめる交換条件として官位を斡旋したり、自分の「輝」の文字を与えたりしました。
また奉公衆という将軍直属の軍事組織を拡充させて、権威の後ろ盾となる実力も得ようとしました。
主に京都近郊や近江などの国人領主がその任に当たっていたようです。
二条城で迎えた剣豪将軍の最期
義輝は京都を離れた潜伏期間が長かったせいか、剣術の鍛錬を怠りませんでした。
もともと剣術の才能があったのかどうかはわかりませんが、その腕前はもはや剣豪レベル。
当時、剣聖とされた塚原卜伝や上泉伊勢守から剣術を学び、「一の太刀」という奥義を卜伝から授けられています。
義輝最後の戦いとなった永禄の変においても、鎧兜に身を固めた武者たちを相手に太刀で立ち向かっています。
この時、義輝がいた二条城(二条御所)は三好三人衆と松永久通が率いる1万の兵に囲まれます。
しかも将軍に面会したいと偽って二条城に侵入してきたため、城内はあっという間に敵の兵でいっぱいになりました。
そんな中、義輝は無数の太刀を周囲の畳に突き刺しておき、刃こぼれしたり切れ味が悪くなると取り替えながら敵を斬り伏せていたそうです。
自分の周りの畳に刀を刺しておいて、ひたすら敵と戦い続けるなんて普通の武将にはできないことですよね?
この義輝の鬼気迫る迫力に恐れをなした寄せ手は、近づくことができず遠巻きにするだけだったとされています。
しかし、いくら義輝が強いとはいえ多勢に無勢。
一人の者が隙を見計らって槍の柄で義輝の足を薙ぎ払い、転倒したところに戸板を幾枚も被せ、その上から無数の槍で串刺しにされてしまいます。
これが義輝の壮絶な最期です。
辞世の句は「五月雨は 露か涙か ほととぎす 我が名をあげよ 雲の上まで」というもの。
意訳すると「5月に降るのは雨なのか私の涙なのか。ほととぎすよ足利義輝という名前を天下に轟かせてくれ」みたいな感じ。
義輝は辞世の句までかっこいいですね。
※ちなみにこれらの逸話は、当時の一次史料には見ることができず、
後世の創作なのではないかという説もあります。
織田信長や上杉謙信も義輝に拝謁していた
将軍権威をないがしろにする畿内の有力者たちとは違って、地方勢力はまだまだ伝統的な権威を欲していました。
そんな権威をあてにして多くの戦国大名たちが義輝に拝謁しています。
有名どころで言うと、織田信長と長尾景虎(のちの上杉謙信)も義輝との面会をした戦国大名の一人。
織田信長は家督を継いでわずか4年で尾張をほぼ統一し、1559年に上京して義輝に拝謁しています。
その際、多額の金品を献上することで尾張の支配権を認められたようです。
また上杉謙信も同年、5千もの軍勢を引き連れて上洛。
義輝に拝謁しています。
この時にも多くの献上品と引き換えに関東管領の補佐を命じられ、信濃出兵の大義名分を与えられています。