織田信長の優秀な家臣団は「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間」という言葉が表されることがあります。

 

五郎左(丹羽長秀)はお米のようになくてはならない存在。

藤吉(羽柴秀吉)は木綿のように丈夫なので使い勝手が良く、どんな仕事でも任せられるという意味です。

 

「退き佐久間」は退却戦の上手かった佐久間信盛のこと、そして「かかれ柴田」はいつも先陣で活躍していた柴田勝家のことです。

 

信長は秀吉のように人を褒めちぎるタイプではありませんでしたから信長がこの4人を評価していたことがわかります。

「かかれ柴田」という表現はなかなか端的で語呂もよく、勝家の特徴を捉えた言葉だと思います。

 

しかし、柴田勝家は最初から信長の忠臣だった訳でなく、信長の父・織田信秀の代から仕えており、一度は信長に反旗を翻したこともあります。

 

一度は信長と敵対しながらも、その後は信頼を取り戻して織田家の筆頭家老として信長を軍事面で支える。

今日はそんな柴田勝家の興味深い人生を振り返っていくことにしましょう。

 

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最初は信長の弟・信勝に家臣としてに仕える

柴田勝家の生まれた年はよくわかっていませんが、一般的なのは1522年頃、遅くても1527年くらいには誕生していたとされています。

信長が1534年生まれなので、どの説をとるにしても信長よりも一回り年上。

そのため最初から信長に仕えた訳でなく、元服してすぐに信長の父・信秀の家臣となります。

 

 

勝家がすごいのは、織田信秀が亡くなった頃には若くして織田家の重鎮となっていたこと。

決して身分の高い家の生まれという訳ではないようですが、信秀亡き後、信長の弟である織田信行の家老となっていることを考えると、かなりのスピード出世をしていることが分かります。

 

「とにかく戦上手で豪快、でも仕事はきっちりこなす」

 

これが筆者が持っている柴田勝家という武将の印象です。

 

1552年の清須織田家との萱津の戦いでは若いながらも大将格として出陣。

30騎を打ち取り、また織田信友の家老、坂井甚介を打ち取るなどの武功をあげます。

この出世ぶりや活躍からも若いながらも新進気鋭の若武者であったということが推察できます。

 

その後、信行と信長の家督争いが起こったときには信行側につき、稲生の戦いでは信長の家臣を打ち取るなどして織田信長を追い詰めます。

しかし、すんでのところで信長に一喝されると身内同士の戦いであるということもあって撤退してしまいます。

 

最終的に戦いは信長の勝利に終わりますが、信長の生母・土田御前からの強い嘆願があって命は救われ、引き続き織田信行に仕えます。

ところが、主君である信行が許されたにも関わらずまだ信長を倒すことを画策していたり、また信行が彼氏の津々木蔵人(勝家より新参)を重用して自分を軽んじていることなどに呆れてしまい、勝家は信行がまたしても謀反を企てていることを信長に密告します。

 

これを知った信長は怒って、仮病を使っておびき寄せた信行を殺害。

信行の死によって信長は尾張を完全に統一して、勝家は信長の家臣となることになります。

 

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信長の家臣となってからは上洛戦の殆どに参加

さて、意外にもこの一件から8年間柴田勝家の名前は記録に上らなくなります。

実は勝家は桶狭間の戦いや美濃攻めといった信長序盤の大きな戦いに出陣したという記録が残っていないのです。

 

もちろん記録が残ってないだけで出陣していた可能性は十分にあり得ます。

ただ、これだけの重臣の名前が全く出てこないというのはちょっと不自然です。

 

信長が自分の部下を8年も遊ばせておくということもあまり考えにくいので、ほかの仕事(勝家は当時信行の息子の教育係をしていた)に専念させていたのか、あるいは一度裏切った部下なので、信長も最初の頃は重用していなかったのかもしれません。

 

しかし、足利義昭を奉じて京都に攻め上る戦いからは、勝家の名前が度々登場するようになります。

 

1569年に本圀寺の変が発生すると信長と一緒に京都に強行軍で向かったり、4月には伊勢北畠氏との戦いにも参加します。

その後も、姉川の戦い、野田・福島城の戦い、長島一向一揆、槙島城の戦い、長篠の戦いに参加し、その褒章として1575年には

越前国49万石を与えられます。

 

越前は朝倉義景が治めていた国ですが、朝倉氏が滅亡してから一向一揆が起っていました。

勝家は一向一揆を鎮圧し、北ノ庄城を築いて両国経営にあたっています。

 

越前朝倉氏館跡の写真
越前の朝倉氏館跡

 

信長の上洛戦からは目の覚めるような大活躍。

うーん、あの8年の空白は一体……。

 

領国経営の能力としては刀狩りで集めた武器を農具などに鋳直したり道路や橋の整備をして領内の行き来を便利にするインフラも行うなど領民からの評判も良かったと言われます。

 

また、宣教師のルイス・フロイスは勝家の宗教観に関して、「彼は禅宗だが他の宗派を憎まず」とか「越前でのキリスト教の布教については、いっさい妨害はしないが手助けもしない、教えが広まるかどうかは宣教師たちのテガラシダイ(手柄次第)だ」と述べたと言われ、宗教に関しても意外とオープンマインドな一面があったこともわかります。

 

これらの話からも決して武辺一辺倒ではないオールマイティな武将であったことがわかります。

翌年の1576年には北陸方面の軍司令官に任命され、前田利家、佐々成政、不破光治・佐久間盛政といった優秀な与力も付けられます。

 

というのも越前は隣に90年一向一揆が支配する加賀国という非常に緊迫する地域を抱えた場所であり、優秀な武将が多数必要な場所だったのです。

 

実はその加賀の先にはもっと手ごわい強敵が控えていたりするのですがそれについては次の項でご説明したいと思います。

秀吉と大喧嘩!単独で上杉謙信と闘って惨敗!

90年間、一向一揆によって支配されていた加賀国を平定した柴田勝家でしたが、1577年7月に上洛を目指した上杉謙信が加賀へと攻め入ったことから情勢が急変します。

 

上杉謙信は「軍神」や「越後の龍」という異名を持つほどの戦上手で、織田家にとって脅威であったことは間違いありません。

その証拠に、信長は謙信に贈り物をするなど、友好関係を保つように努めています。

 

上杉謙信と武田信玄の一騎討ちの銅像
上杉謙信と武田信玄の一騎討ちの銅像

 

ただ、謙信は積極的に他国に攻め込んでいくというタイプではなかったため、この侵攻は予想外のものだったのです。

信長はこの突然の謙信の侵攻に羽柴秀吉を勝家の援軍として向かわせますが、(中国地方の司令官にしてやるぞと信長に言われていたにも関わらずなかなかさせてもらえずこの時もやる気ゼロだった)秀吉は現場で勝家と仲違い。

 

信長の命令を無視して勝手に撤収してしまったため、勝家は独力で謙信と戦わなければならなくなります。

 

勝家からしたら「何しに来たんだこの猿……。」という感じでしょうが、上杉謙信という強敵と戦わなければいけない状況で喧嘩するって・・・。

勝家と秀吉は本当にウマが合わなかったことが分かる逸話ですね。

 

勝家はまず謙信が攻めている七尾城という城の救援に向かいます。

というのも七尾城の城主の長続連は親織田派の武将で、この時も信長に対し助けを求めていたのです。

 

これを見捨てる訳にはいかないと勝家たちは援軍に向かいますが、城内で上杉謙信に内通する人物が出て七尾城は落城してしまいます。

しかも、勝家が七尾城の落城を知ったのは手取川という川を渡りきった直後でした。

 

本来であれば勝家たちの援軍と七尾城の兵で上杉軍を挟み撃ちにできるところですが、城が落城したとなると、背後に手取川がある勝家の軍勢は逃げ場がなくなってしまいます。

 

勝家はすぐさま手取川を引き返して撤退することを決めますが百戦錬磨の上杉謙信がこんなチャンスを見逃すはずはありません。

 

そもそも手取川という川の名前は木曽義仲の時代に、「渡河中の危険さから手と手を取って流されないようにした」というエピソードがあるほど渡るのに危険を要する川。

しかもこの頃は雨で大増水中でした。

 

そこに容赦なく襲いかかる上杉謙信……。

自慢の鉄砲は川で濡れてしまってとっくに使い物にならなくなっており、勝家の軍勢は1000人とも言われる戦死者の他に多数の溺死者を出しながら越前に撤退。

 

あまりの圧勝ぶりに上杉謙信は「なんや、信長、結構雑魚やん(意訳)」と書状に書いてしまうほど消化不良だった様子。

勝家にとっては非常に悔しい結果となってしまいました。

 

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勝家の絶頂期

上杉謙信にフルボッコにされてしまい、リベンジに燃える勝家。

しかし、この問題は翌年の1578年3月に上杉謙信がトイレで死んでしまうことによって解決するのでした。

やったね!

 

ここを好機とみた勝家は一向一揆の本拠・金沢御堂を攻略して一向一揆を完全に鎮圧。

加賀、能登、越中を治める大勢力になります。

 

さらにこの頃、佐久間信盛などが信長に追放されたため、勝家は名実ともに織田家筆頭家老となりました。

 

1582年には武田家が完全に滅び、勝家も謙信から上杉景勝に代替わりした上杉家にリベンジをするべく越中の魚津城を攻略。

そんな信長の家臣としては順風満帆の真っ只中に、勝家の人生を大きく変える大事件が起きます。

本能寺の変では上杉景勝に牽制されて動けず

勝家が本能寺の変の一件を知ったのは魚津城を陥落させたのとほぼ同時だったようです。

1582年6月6日、信長の死を知ると、勝家は北の庄城へと軍を引き上げます。

本能寺の変から4日後のことです。

 

6月8日には近江に。

そして9日には京都まで引き返してきていましたが、ここでまたしてもトラブルが起きます。

 

信長の死を知った上杉軍が越中・能登の国衆を煽り勝家は身動きがとれなくなってしまったのです。

このタイムラグが歴史の明暗を分けることになりました。

 

6月13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を撃破。

勝家が動けるようになったのは18日でした。

 

明智光秀の銅像の写真
明智光秀の銅像

 

この5日の差によって秀吉は「信長の仇討ち」という強力な発言力を得てのちの清洲会議に臨むことになるのです。

 

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清洲会議では秀吉に主導権を奪われる

本能寺の変後、織田家の後継者や信長亡き後の遺領配分などを決める清洲会議という会議が行われます。

柴田勝家は信長の後継に三男・信孝を押します。

それに対して秀吉は信長の嫡孫・三法師(信忠の子供)を押します。

 

結局会議は光秀を討ったことにより発言力があった秀吉の思惑通り、家督は三法師が継ぎ、それを信孝が補佐するということで決着。

 

さらにその後の遺領配分においても秀吉は河内・丹波・山城と大幅に領土を増やしたのに対し、勝家が新たに得た領土は北近江と長浜城だけと筆頭家老にしては随分控えめです。

 

それともうひとつ興味深いのが、この会議の後に柴田勝家は信長の妹お市の方と結婚をしており、その仲介を秀吉がしているということです。

 

これもおそらくはこの遺領配分などによる柴田勝家の不満を和らげる秀吉の意図があったのではないかと考えられます。

この会議の後、勢力を増した秀吉と柴田勝家などの織田家重臣たちとの権力闘争が賤ヶ岳の戦いまで続くことになります。

 

しかし、この時点で秀吉の勢力は大きく拡大されています。

日本の中心地を押さえていた秀吉と、越前という雪深い地域を治めていた勝家では勝負はあったようなものです。

賤ヶ岳の戦いでの敗戦

この状況で先に動いたのは秀吉でした。清洲会議が起きた年と同じ年の1582年12月2日に秀吉は長浜城の柴田勝豊を攻撃し降伏させます。

また12月20日にはそのまま織田信孝の守る岐阜城にも攻め込み降伏させます。

 

しかし、北陸の北の庄城にいた勝家は雪のせいでこれに対し動くことができず、秀吉が味方を倒していくのを指をくわえてみていることしかできません。

 

1583年正月には滝川一益が秀吉に対して挙兵し、秀吉も一回京に戻るものの翌月には滝川一益に対して7万の大軍で攻撃を再開。

国府城を落とし一益の本拠地長島城に攻め込みますが一益は粘り強く抵抗して勝家が助けに来るのを待ちます。

 

これに対し勝家はいてもたってもいられず、2月末にまだ完全に雪は溶けてはなかったものの出陣。

賤ヶ岳という場所に布陣した両軍は互いに強力な砦を築いてにらみ合います。

 

さすがは長篠の戦いや備中高松城攻めなどで土木で勝利してきた織田家の重臣同士。

お互いの手の内は知り尽くしているので、どちらも下手に手出しはしません。

 

そんな時、前年に降伏していたはずの織田信孝が再び挙兵し、滝川一益と組んで岐阜方面から秀吉を攻撃しようとします。

柴田勝家とにらみ合いをしている秀吉を挟み撃ちにしようという訳です。

 

これに対し挟撃されるのを懸念した秀吉は一部の兵を賤ヶ岳に残し、背後の大垣城へと向かいます。

どうせ勝家が攻めてこないなら、まずは後ろの敵を叩いてやろうという作戦です。

 

すると、これを見ていた柴田勝家の部下、佐久間盛政が喜び勇んで勝家に「今秀吉のいないうちに大岩山砦を攻撃するべきだ」と強く進言します。

 

しかし、秀吉という人物をよく知っている勝家は反対。

「この大事な局面で秀吉がなんの考えもなしにここを離れるとは考えにくい。何か罠に違いない」と盛政をなだめますが、それでもしきりに積極論を押す盛政に対し、「まぁ大岩山砦を攻めるだけなら…」と許可を出します。

 

この期待に応えて、盛政は大岩山砦を守っていた中川清秀を討ち取り、黒田官兵衛や高山右近を退けます。

勝家は敵陣に深く入り込まないように命令を出していましたが、調子に乗った盛政は勝家の再三の撤退命令にも関わらず前線に軍勢を起き、賤ヶ岳砦まで攻め込んでしまいます。

 

この知らせを受けた秀吉は、待ってましたとばかりに軍を反転。

木ノ本までわずか5時間で戻ってきます(美濃大返し)。

 

さらにこの戦いの最中に柴田勝家の与力だった前田利家が戦線離脱。

その前田利家がもし攻めてきたら対応しようと待機していた軍が、利家がいなくなったことによって手持ち無沙汰になって盛政の軍勢に攻めかかったりと、柴田軍にとって不利なカタストロフィが起きて柴田勝家の軍勢は崩壊。

 

盛政の暴走によって、勝家は北の庄城へと退却することになります。

 

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賤ヶ岳七本槍として秀吉の子飼いの武将が飛躍

賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家ですが、逆に勝利した羽柴秀吉はこの戦いを機に、一気に天下人の座まで登りつめます。

そして秀吉と同じく賤ヶ岳の戦いで大きく名を上げたのが「七本槍」と呼ばれる7人の若き武将たちです。

 

一番槍・一番首の大手柄をあげた福島正則をはじめ、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の七人全員が20代の若さ。

それがこの賤ヶ岳の戦いを機に福島正則が5000石、他は3000石と大出世しています。

 

小姓として幼いころから秀吉に仕えていた福島正則や加藤清正は、これまで育ててもらった恩を感じて壮絶な戦いに挑んだと言われています。

 

そして豊臣秀吉の凄いところはアピールが上手なところ。

20代の7人が柴田勝家相手に手柄をあげて加増されたという事実を世間に公表することで、配下の武将たちは立身出世の意欲が膨らみ、敵の勢力も豊臣秀吉の下で活躍すれば評価してもらえるという事実を作り上げました。

 

これは新しい時代の到来を告げるものとなり、織田信長の統治からの脱却のイメージを天下に与えたことになります。

 

柴田勝家の最期

秀吉は勝家の下から離脱して味方に加わった前田利家の軍を先頭に、北ノ庄に籠城する柴田勝家を攻めます。

柴田勝家は北の庄城の落城が決定的になると、子供達を逃がし、妻のお市の方と共に自ら切腹して果てています。

 

享年は62歳。

この時、勝家はお市の方も子供達と一緒に逃がしたかったのですが、お市の方自らが勝家と共に最期を迎えることを希望したとされています。

 

辞世の句は

 

『夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』

 

意訳すると、『山ホトトギスよ、夏の夜の夢のように短く儚い私の名前を後世まで伝えてくれ。』となります。

 

これが織田信長の下で猛将と呼ばれた武人の最期です。

 

敗戦のきっかけを作った盛政は黒田官兵衛に捕らえられて斬首。

織田信孝は秀吉と組んでいた兄、織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏。

後に切腹します。

 

滝川一益はその後も1ヶ月頑張って篭城しますがついに開城。

剃髪して出家し、越前大野に蟄居することになります。

 

豊臣秀吉はその後、天下を統一して太閤と呼ばれるようになり、北の庄を脱出したお市の方の娘・茶々は、秀吉の側室に迎えられ淀殿と呼ばれるようになります。

 

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