明智秀満は明智光秀の最も信頼した家臣。
光秀と同じ明智という名字ですが、親族じゃないという説もあれば光秀の叔父、明智光安の息子であるという説もあります。
ここまで読んで察した方もおられるかもしれませんが、実はこのお方あまり出自のはっきりしないお方。
特に前半生に関しては詳しく分かっていません。
ですが、秀満は明智光秀を語る時には絶対に外せない人物。
何故らな歴史を揺るがす大事件「本能寺の変」のど真ん中にいた人だからです。
今回は大河ドラマ「麒麟がくる」でも大注目の明智秀満について詳しく解説します。
謎の多い秀満の前半生
前述のように出自がいまいちはっきりしない明智秀満(明智光春)。
若い頃は三宅弥平次と名乗っていました。
生年も1536年説があったり、1557年説がるなど、20年も差があるというむちゃくちゃブレブレ前半生です。
(後述するのですが、光秀の後見をしていたという記録もあります。明智光秀の生年は一番遅い説でも1528年なのでそうなるとこの生年どっちも嘘くさいんですよね)。
江戸時代に書かれた『明智軍記』の記述を信じれば彼は明智光秀の叔父、明智光安の息子兼家臣として明智光秀とともに働いていたことになってます。
そうなると秀満は光秀のいとこということにもなりますね。
当初は明智光秀がまだ若かったために明智秀満が後見となっていたようです。
幼くして父を亡くしたと思われる光秀にとっては兄のような存在であり、また父のような存在であったということがわかります。
しかし、1556年斎藤道三と斎藤義龍の親子同士の内戦が勃発。
秀満の父、明智光安は斎藤道三に味方するのですが、その道三が長良川の戦いにて敗北したことによって明智氏は立場が悪くなってしまいます。
明智城は義龍らに攻められて落城、光安も自害してしまいますが光秀と秀満は城を脱出しそのまま浪人となりました。
【関連記事】
光秀との信頼関係を物語る逸話
このあと秀満がどこで何をしていたのか詳しいことは分かっていませんでした。
しかし、2018年の2月に三重県で発見された「明智秀満書状」と呼ばれる書状から秀満が何をしていたのか少しづつ分かってきました。
書状の内容は光秀の本拠地となる坂本城(滋賀県)の築城に関して秀満の指示が書かれたもので広間の襖・障子・引手・釘隠しの取りつけについて、責任を持って丁寧に行うこと」など工事の際に注意すべきことが事細かに記されています。
ここから分かるのは秀満が光秀配下として忠実に働いていたこと。
そして光秀もまたこの坂本城という大事な城の築城の監督を任せるほどに秀満を信頼していたことなどが分かります。
もう一つ、光秀と秀満との親密さをうかがわせるものに1578年の結婚のこともあります。
この年に秀満は光秀の妹と結婚しています。
実はこの妹は以前は荒木村重という武将のもとに嫁がされていたのですが、荒木村重が裏切ったことにより実家に戻ってきていました。
おそらく光秀ももう二度と妹の結婚で失敗はさせたくはないと思ったことでしょうが、その嫁ぎ先として選んだのが明智秀満でした。
【関連記事】
→荒木村重はどんな性格?なぜ妻(だし)を捨てて有岡城から逃げた理由とは?
さらにさらに、このあと光秀は丹波平定を命じられるのですが、その足がかりとなる福知山城に城代として任命したのも明智秀満でした。
福知山城においては千利休と並ぶ茶道の天下三宗匠の一角を成す津田宗及を城に招いたこともあったので、茶会の知識もあったと思われます。
このように秀満の詳しい出自は不明ながらも見えてくるのは光秀との強い信頼関係。
そして理想の上司と部下の関係です。
おそらく秀満は光秀の右腕のような存在。
このままスムーズにいけば、明智家の重臣として順風満帆な日々が送れていたと思います。
しかしこの後、二人の運命はある出来事によって大きく変わることになります。
本能寺の変では頼れる指揮官に
その事件が起きたのは秀満が福知山城城代となった翌年でした。
『信長公記』には明智光秀の本能寺の変の直前の行動が記されています。
よくドラマでは行軍中の兵士たちに向かって明智光秀が大音声で、「敵は本能寺にあり!信長を討て!」と言っているシーンがありますがあれはもちろん後世の創作。
実際には光秀は本能寺の変の直前にまず自分が信頼している部下4人だけを集め信長を討とうと考えているという計画を打ち明けたと言われています。
光秀が打ち明けた部下4人は明智光忠(光秀のいとこ)、藤田伝吾、斎藤利三、そして明智秀満を含めた4人でした。
また別の資料によると光秀は本能寺の変の計画をまず最初に秀満だけに打ち明けたとも言われています。
この時秀満は光秀の謀反の計画に反対しましたが、光秀がほかの複数の家臣にも話したため、
「複数人にその意思を明かしてしまった以上、信長公に知られるのも時間の問題、もう事を起こすほかない」と覚悟を決めたとも言われます。
なんか忠臣って感じでかっこいいですよね?
ここからも、ただ上司に迎合するだけの武将ではないものの一度決断すれば瞬時に迷いを捨てる芯の強さのようなものを感じずにはいられません。
そして1582年6月2日未明に本能寺の変が勃発。
秀満はこの時本能寺攻略の先鋒を務め、この作戦成功に大いに寄与します。
また二条城に立てこもっていた織田信忠も討ち果たすという光秀たちにとっては理想的な展開を迎えます。
しかしこのあと、思わぬ問題が次々に発生するのでした……。
【関連記事】
→本能寺の変の真相?今一番面白い「足利義昭黒幕説」について考察してみた!
信長の首が見つからないという最大の誤算で窮地に
おそらく当初の光秀の計画としては、まず織田信長の首を罪人として晒すことで自分たちの謀反に正義性を持たせようというのが狙いだったのではないかと思います。
ところが、問題の信長の首どころか二条城で死んだはずの織田信忠の首すらも見つからなかったのです。
そして、首が見つからなかったということもあり、当初味方についてくれると思っていた細川藤孝や筒井順慶といった大名たちがなかなか味方についてくれません。
というのも信長の遺体が見つからない以上「もし万が一信長が生きていたら…」という恐怖心が彼らに光秀に味方させるのを戸惑わせていたのです。
実際に秀吉は「信長様は本能寺を脱出して生きている」という手紙を有力武将に送っています。
そうして光秀たちが味方を集めるのに苦戦している間、秀吉は中国大返しをやってのけるのです。
予想以上に早く引き返してきた秀吉に驚愕する光秀。
充分に体勢が整わないまま山崎の合戦で秀吉の軍勢と戦い、敗北してしまいます。
そして敗戦後、光秀は坂本城に引き返す途中で落ち武者狩りに合って殺されます。
山崎の戦いには参加せず
実は明智秀満は山崎の戦いには参加していません。
何をしていたのかというと、信長亡き後に占領していた安土城(信長の本拠地)を守っていました。
安土城は織田家筆頭家老の柴田勝家が攻めて来る恐れのある北陸道、そして徳川家康がくる可能性のある東海道との交通を抑える要衝で、光秀たちが背後をつかれないようにするための最重要拠点だったのです。
しかし光秀が山崎の戦いで敗れたことで安土城を守る意味もなくなり、明智秀満は坂本城へと向かいます。
そして、そのさなか「明智左之助の湖水渡り」という有名な伝説が生まれます。
どんな伝説かというと、秀満が安土城から坂本城へ移動する際、陸路には堀秀政の軍勢がいたため琵琶湖を泳ぐ馬にまたがって坂本城にまで逃げたというもの。
馬は確かに泳ぐのが上手な生き物で、なかなか面白い話です。
ただ、人間を乗せたまま泳げるかどうか…。
天草四郎が海を馬で走ったとかの伝説とは違って、全くありえないとは言い切れないギリギリ感のある伝説ですよね。
秀満の最期
噂の真相はどうあれ無事に坂本城に到着した明智秀満。
しかし兵士の中には逃亡者も多くもはや篭城戦ができるような状況ではありませんでした。
もはやこれまでと最後を悟った秀満が最後にとった行動は坂本城に残る名品の数々を目録とともに城を取り囲んでいた堀秀政の部下、堀直政に送ることでした。
秀満は堀直政に対し、「堀監物(堀秀政)殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次(秀満のこと)を傍若無人と思うであろうからお渡し申す」と叫んだと言われています。
秀満の文化人としての個性が覗かせるそのような一幕とも言えるかもしれません。
目録と送られてきた名品を確認した直政でしたが、その中に郷義弘の脇差がないことに気づき、その点について尋ねます。
「その道具は信長公から光秀が拝領した道具である。…越前の朝倉を落とした際に御物奉行が持っていたもので、後に光秀が密かに聞き出しこれを求めて置かれたもの。…光秀が命もろともに内々に秘蔵されていたものなので我が腰に差して光秀に死出の山でお渡ししたく思う」と返答。
これには直政も納得したといいます。
そして1582年6月15日。
光秀が亡くなった翌日に明智光秀の妻子、ならびに自らの正室を刺殺してから坂本城に火を放って自害。
前述のように生年がよくわかっていないため享年は20代説もあれば40代説もあってよくわかっていません。
はたまた、徳川家康の側近の南光坊天海になったとも言われ最後の最後まで非常に謎多き人物です。
【関連記事】