西郷隆盛は生涯で3度結婚しています。
そのうち1度目の妻とはすぐ離婚。
2度目の妻とは事情があって別れざるをえず、3度目の妻と亡くなるまで暮らしています。
では、西郷隆盛の結婚生活とはどのようなものだったのでしょうか?
今回は西郷隆盛が娶った須賀・愛加那・糸という、3人の妻について解説します。
すぐに離婚してしまった最初の妻・須賀
周囲の人々に結婚を勧められても、なかなか結婚しようとはしなかった西郷隆盛。
しかし、そんな隆盛も25歳の時に最初の結婚をします。
結婚相手は名家として知られる伊集院家の須賀という娘。
しかし、須賀との結婚生活は2年で終わりを告げます。
今で言うところのスピード離婚ですね・・・。
では、離婚の原因は何だったのでしょうか?
このころ隆盛は、島津斉彬の家来として忙しく働いていましたが、父親の代から多額の借金があったので、出世はしたものの貧しい暮らしをしているという状態でした。
そんな中で家に一人残された須賀を不憫に思ったのが実家の伊集院家。
隆盛が参勤交代で斉彬のお供をしている間に引き取ったとも、直接隆盛に「娘と離婚してほしい」と申し出たともいわれています。
下級武士である西郷隆盛と、名門の娘である須賀には価値観の大きな違いがあったのかもしれません。
2番目の妻・愛加那(あいかな)
隆盛が次に結婚するのは33歳の時。
恋愛事が苦手だったのか、前の結婚がトラウマになっていたからなのかは分かりませんが、2回目はかなり間が相手からの再婚になります。
きっかけになったのは、奄美大島への島流し。
斉彬の下で一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を将軍にしようと動いていた隆盛は、慶喜派を弾圧していた時の大老・井伊直弼によって幕府から追われる身となってしまいます。
その最中に斉彬が急死し、追いつめられた隆盛は同じく慶喜派の月照というお坊さんと、船の上から海に飛び込み自殺を図ります。
しかし、体力があった隆盛は一命を取り留めます。
これを知った薩摩藩は、幕府に隆盛は死んだと嘘をついて、島流しにしたふりをして隆盛を奄美大島にかくまうことにしました。
というわけで隆盛の奄美大島での暮らしが始まったのですが、その世話をしたのが2番目の妻となる愛加那です。
やがて隆盛と愛加那は結婚。
菊次郎と菊子という2人の子どもに恵まれます。
しかし幸せもつかの間、隆盛は藩に呼び戻されることに。
今の時代だったら家族と一緒に戻るか、それが無理なら単身赴任で…というところですが、愛加那は「島妻
(あんご)」という立場だったため、島から出ることが許されなかったのです。
※島妻制度:島で結婚しても妻は本島に連れて帰ってはいけないという決まり。
こうしてやむを得ない事情から、隆盛は愛する家族と離ればなれになってしまいます。
家族と別れながらも、無事藩に戻ることができた隆盛。
ところがわずか4か月後、今度は沖永良部島に島流しにされます。
この時の西郷隆盛は本当に試練の連続。
ただ、そんな中でも愛加那が心の支えになっていたのか、罪が許されて帰る途中、隆盛は奄美大島に寄って愛加那や子どもたちと4日間を過ごしています。
最期まで隆盛を愛し続けた3番目の妻・糸
愛加那との別れでさらにトラウマが深くなったのか、その後隆盛は持ち込まれた縁談を断り続けます。
そんな中、実力行使におよんだのが有川矢九郎という人物。
彼は親戚である岩山家の娘・糸をいきなり隆盛の家に連れて行き、その場で結婚の話をまとめてしまったと言われています。
かくして、隆盛と糸はめでたく結婚。
隆盛が39歳、糸が23歳の時でした。
実は糸は隆盛と結婚する前に、親が決めた許嫁(いいなずけ)と結婚したものの離婚しています。
今で言うところのバツイチですが、相手はバツ2ですから大した壁はなかったのでしょう。
ここからラブラブな新婚生活が始まるかと思いきや、結婚からわずか4日後に、隆盛は藩の命令で福岡の大宰府に出張してしまいます。
同じような状況で、1番目の妻・須賀はすぐに離婚してしまいましたが、糸は嫁ぎ先で一人頑張ります。
隆盛が明治維新に貢献し、参議(政府の大きな役職)・陸軍大将と大出世を遂げても、糸は変わらず質素な生活を続けます。
さらに、糸は奄美大島にいた愛加那の息子・菊次郎と娘・菊子を引き取り、自らの子どもと同じように育て上げました。
当時の薩摩では、島の人々は「島人(しまじん)」と呼ばれ差別されていました。
なので、この決断は当時としてはとても大きなものだったに違いありません。
糸は隆盛と同じく、器の大きな人物だったのだと思います。
隆盛との別れ…その後の糸の人生
隆盛が西南戦争で亡くなってから21年後、東京の上野に隆盛の銅像が建てられました。
着物姿で犬を連れたあの銅像です。
この銅像は隆盛がとても可愛がっていた薩摩犬のツンとうさぎ狩りに行く姿をモデルにしています。
除幕式には糸をはじめ、隆盛の弟の従道や、従道の娘の桜子などが参加したのですが、完成した銅像を見た糸が鹿児島弁で、「これは、やどんしじゃなか(これは、うちの主人じゃない)」と声を上げたという逸話があります。
確実にその場は凍りついたことでしょう。
「この人、言っちゃったよ!」という空気になっていたかもしれません(笑)。
隆盛は写真が残っていないことで有名ですが、その後隆盛と糸の孫の吉之助が、糸は威厳があった隆盛があのようなラフな姿で銅像になったのが不満だったのではないか、と推測しています。
隆盛の死後も、糸は85歳で亡くなるまで、家族に隆盛との思い出を明るく話しながら日々を過ごしました。
その一方で、奄美大島で隆盛を「島妻」として支えた愛加那は、隆盛が亡くなった25年後に、66歳で寂しくこの世を去っています。
隆盛と三者三様の結婚生活を送った3人の妻たち。
それぞれとの暮らしは決して長い時間ではありませんでしたが、隆盛が明治維新の立役者となった陰に、彼女たちの支えがあったのは間違いありません。
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