岩倉具視は幕末から明治時代にかけて活躍した公家であり政治家。
朝廷を追放され、暗殺されそうになるなど、いくつもの難局を乗り越えてきた苦労人です。
西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らのバックについて、倒幕を画策をした人物としても知られています。
では、実際の岩倉具視はどんな人物だったのか?
今回は功績や逸話を紹介していきます。
岩倉具視を簡単に解説
岩倉具視は中級貴族である堀川家に生まれて、下級貴族の岩倉家の養子となりました。
天皇がいる宮中に勤め、1858年、江戸幕府が日米修好通商条約を結び天皇や朝廷の許可(勅許)を得ようとした時には、多くの公家たちとともに反対しています。
その後、朝廷と幕府が手を結ぶ公武合体の立場をとり、孝明天皇の妹である和宮と当時の将軍の婚姻を進めます。
しかし、反対派から攻撃され、岩倉は宮中を去って岩倉村に移り住むことになります。
そして、岩倉村にいるころに親交を深めたのが大久保利通など倒幕派です。
岩倉は大久保や西郷隆盛ら連携を取りながら、倒幕派の後ろ盾となっていきます。
1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、形の上では政治の権利は幕府から朝廷に返されました。
しかし、武家政治が長年続いてきたため、朝廷には政治を行うノウハウがありません。
つまり、政権が返上されたものの、朝廷はどうしたらいいか分からなかった訳です。
さらに、日本で最も多くの領地を持っている徳川家の力を無視することはできません。
そこでもう一度、徳川慶喜に政治を任せようという声も出てくるのですが、それを阻止したのが岩倉具視でした。
岩倉は大久保利通などと手を組んで、慶喜に内大臣の地位と徳川家の領地の多くを返上させる計画に参加。
これにより、王政復古の大号令が出され、徳川慶喜を排除した新政府が作られます。
さらに、新政府の重要人物となった岩倉は倒幕を進めます。
1868年、旧幕府軍と新政府軍との間で『鳥羽伏見の戦い』が勃発。
旧幕府軍が突如として京都に攻め込んできました。
この時、岩倉らは錦の御旗をたてて旧幕府軍と戦うよう新政府の会議で決定。
錦の御旗を見た多くの藩が幕府を離れ、新政府に味方しました。
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こうして戊辰戦争は新政府の勝利に終わり、明治になると岩倉は外務卿、右大臣に就任。
1871年から73年にかけて特命全権大使として欧米を視察しています。
帰国直後、国内政治優先の立場から征韓論を唱えた西郷隆盛や板垣退助らと対立。
1874年には不平士族に襲われて負傷しますが、一命はとりとめています。
1883年、がんにより死去。
日本初の国葬が行われています。
王政復古の大号令の舞台裏 幽棲旧宅
岩倉は皇女和宮と将軍家茂の結婚を進めたことなどから親幕府派とみなされて朝廷を追われました。
京都市中に住むことを禁じられた岩倉は現在の京都市左京区にあった岩倉村にひきこもります。
その時に住んだ家が幽棲旧宅。
1864年から1867年にかけて居住しました。
画像引用:https://iwakura-tomomi.jp/
昭和7年に国の史跡に指定され、今でも入場料を支払うことで開館日に見学することができます。
岩倉使節団の欧米視察
岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団は総勢100名を超える大使節団でした。
木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など名だたる人物が副使として同行しましたが、一国の政治の中心人物たちが長期間にわたって海外に行くというのは異例のことでした。
当初は江戸幕府が結んだ不平等条約を改正することを目的としていましたが、この目的は達成できませんでした。
しかし、西洋文明に触れることで、新しい考えや国を統治する仕組みを学んで帰っています。
当初、まげ姿の岩倉が珍しかったのか、アメリカの新聞で盛んに岩倉が取り上げられたそうです。
アメリカに留学していた岩倉の子の岩倉具定らは、「珍しがられているだけでこのままでは遅れた国として侮られてしまう」と説得されてシカゴで断髪。
以後は洋装に改めて旅を続けたという逸話が残っています。
喰違の変 岩倉具視暗殺未遂事件
1873年、征韓論を退けた岩倉は不平士族の恨みを買うようになっていました。
西郷隆盛らがいったん決定した朝鮮への使節派遣を岩倉が握りつぶしたとみなしたからです。
1974年1月、赤坂の仮皇居を退出した岩倉の乗る馬車が赤坂喰違坂に差し掛かった時に9人から襲撃を受けます。
馬車を襲われた岩倉は斬りつけられつつ、四谷濠に転落します。
岩倉具視襲撃の現場付近
これによって襲撃者たちは岩倉を見つけ出すことができなくなり、かろうじて助かります。
ちなみに、このすぐ近くの紀尾井坂で大久保利通が襲撃され暗殺されています。
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岩倉具視の子孫は有名人が多い
岩倉の子孫は有名人が多いです。
代表的な人を紹介しましょう。
まず、よく知られているのは俳優の加山雄三さんです。
映画「若大将シリーズ」の主演で「君といつまでも」などの代表曲があります。
加山さんは岩倉の玄孫にあたります。
次に有馬頼寧さん。JRA(日本中央競馬会)の第2代会長で有馬記念に名を遺した人物です。
彼は岩倉の外孫です。
最後にタレントの喜多嶋舞さん。
彼女は岩倉の来孫になります。