ここ数年でお金の形が大きく変わったという人がよくいます。

確かに、昔は大判や小判だったのが紙幣などの紙媒体に変わったかと思えば最近ではキャッシュレス決済などになったりお金の形が文字通り姿を変えているのです。

しかし、お金の形が変わったとしてもお金を通じた信頼関係というものは変わりません。

 

今日ご紹介する渋沢栄一は、その信頼関係を相手との間に巧みに築き財を成しただけでなく、その成した財力でさらに多くの人が生活を豊かにした人物。

簡単に言うとWin-winの関係こそが商業者の目指すものだという信念を持っていました。

 

彼のすごいのはそのモットーが若い頃も年を取ってからも全く変わらなかったということです。

一体どういう意味なのか、彼の前半生を振り返ってみました。

 

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相撲の番付表を利用して染料の質を向上させる

渋沢栄一が生まれたのは天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村(むさいのくにはんざわぐんちあらいじま)という場所です。

栄一の父はこの村で随一の富豪農家「東の家(ひがしんち)」を経営する渋沢市郎右衛門(しぶさわいちろうえもん)で、染料を固めて作る藍玉の販売で財を成した人物でした。

 

なので、栄一も幼い頃から農家の子供とは言え商業の才覚を鍛えられていきます。

栄一は幼い頃から父とともに藍葉を仕入れに行く仕事を手伝い、14歳の時に父から単身で染料の仕入れをする仕事を与えられます。

 

渋沢栄一の生家の写真
深谷市にある渋沢栄一の生家

 

染料の仕入れはそのまま藍玉の質にも直結する責任の重い仕事です。

そこで彼はどのように藍玉の材料になる染料の質を向上させることができるかと考えある一つの方法を思いつきます。

 

彼が思いついたのは「武州自慢鑑藍玉力競(ぶしゅううじまんかんあいだまちからぎそい)」というシステムです。

このシステムは染料の原料となる藍の善し悪しをランク分けし、仕入れの値段に差をつけ、それをまるで相撲の番付表のようにしてまとめることでした。

 

仕入れにやって来る農家は他より高く買い取ってもらおうと良質な藍を作り染料の質は向上していきます。

互いに信頼しあい、またそれに携わった人みんなが豊かになるまさにWin-winの関係。

栄一の生涯の指針となるこの考えはこの頃から築き上げられていたようです。

 

代官に(童貞を)バカにされたのをきっかけに世の中のシステムに疑問を感じる。

そして三年後。

栄一の活躍などもあり渋沢家の家業が軌道に乗った頃のこと。

 

代官所からの出頭命令により、父市郎右衛門の名代として栄一は岡部の陣屋へとやってきます。

一緒に呼び出されていた大伯父の宗助と一緒に陣屋にやってきた栄一。

そこに代官がやってきます。

 

この時の代官は若森という人物で、なんの前触れもなく「幕府に五百両差し出すように」と命令をしてきます。

当時豪農といえど一農民に過ぎない渋沢家。

このように渋沢家のような豪農に、幕府や代官がなにかのご祝儀だのなんだのと理由をつけて金銭を要求することは珍しいことではありませんでした。

実際この時、栄一と一緒にやってきてた大伯父の渋沢宗助は平伏し要求された金銭を差し出しすことを約束しますが、いかんせんこの時の栄一は父の名代という立場。

父に相談もせずにこの要求を受け入れるわけにも行かいと判断した栄一は、この件を一旦持ち帰って父と相談をさせて欲しいと頼みます。

 

すると代官はこれに対し、栄一にとって無礼な態度で返答をします。

代官の言うことをまとめるとその年齢にもなって一旦持ち帰らないとお金も払えないのかだの、(だいたいお前くらいの年齢ならそのくらいの金で女も買わんのかとか下ネタ混じりで)バカにします。

…今だったら失言って騒ぎじゃねーなこれ。

 

これに対し栄一はその場では言わなかったものの非常な不公正感を感じます。

おそらく彼の感じた不満はちゃんと年貢を払っているのにこのように何かとお金を要求されること、そしてこちらはお金をあげる側だというのになぜこのように幕府の代官から嫌味を言われなければならないのかなどなど。

結局この時は後日お金を払うということで肩がついたのですが、栄一の胸中は非常に釈然としない複雑な思いが渦巻く一件となりました。

 

幕府転覆しようとしたのがバレて追われる身になったので幕府に身を寄せる

それから更に六年後の文久3年(1863年)渋沢栄一二十三歳の頃。

栄一はこの頃に尊皇攘夷思想に傾倒していきます。

 

まず手始めに高崎城を攻略して武器を手に入れた後に横浜を焼き討ちしようと武器を集めていました。

しかし仲間の反対や、しかも家族にもバレて「絶対にやめろ」と言われ断念。

追われる身となった栄一は尊皇攘夷派の中心地とも言われていた京都にいましたが、実はこの文久3年という年は、ちょうど八月十八日の政変直後で、尊皇攘夷の中心だった長州藩などが凋落していた年でした。

 

そんな尊皇攘夷活動に行き詰まりを感じつつも、幕府の横暴に対する不満は募っていた栄一はある人物に出会います。

その人物とは平岡円四郎という人物で、当時およそ四十歳。

以前に栄一が江戸遊学にいった頃からの知り合いでした。

 

平岡円四郎は栄一のこれまでの経緯を聞いてきっと彼は幕府の中で活躍できる人材だと感じ幕臣となるよう彼に勧めます。

…一体彼のいきさつの何を聞いてそう感じたんでしょうか。

疑問は残りますがそれから彼は3年の間彼は一橋慶喜のもとで各地を回り、持ち前の商売人の才覚を活かして活躍します。

 

パリ万博に出席する

3年後の慶応2年(1866年)。

26歳になった栄一は、将軍となったばかりの徳川慶喜からの命令でパリに留学します。

フランスのパリで万国博覧会が行われ、その式典に慶喜の弟・昭武を大君の親戚として派遣することになったからです。

 

そして、その派遣団の一人として徳川慶喜が栄一に白羽の矢を立てたのです。

こうして御勘定格陸軍付調役という肩書きをもらってパリへと旅立った栄一。

 

パリで彼が目にしたのはパリ万博はもちろんのこと、電気、ガス、水道が発達することによって向上した人々の生活や、あらゆるものが機械化し、工業化している世界でした。

そして彼にとって最も斬新だったのは、多くの人がお金を出し合ってひとつの会社の経営を行う「株式会社」というシステム。

 

このお金を出した方も貰った方も豊かになっていくシステム、これこそがまさしく栄一の目指すその事業に携わった人すべてが豊かになっていくWin-winの関係の理想形でした。

 

栄一にパリでの刺激的な日々は2年弱続きますが、その終わり方はあまりに予想外のものでした。

慶応3年(1867年)徳川慶喜は大政を奉還。

 

それに伴い、慶応4年(1868)の5月に新政府から派遣使節が帰国するというお達しが下ったのです。

栄一が帰国したとき幕府は既に滅び、徳川慶喜も静岡藩の屋敷に蟄居していました。

 

日本に帰ってきた栄一はすぐに蟄居している慶喜に会いに行ったあと、フランスで見たものを日本でも実現しようと活動を始めることになります。

 

これを見ると凄さが分かる!渋沢栄一が作った会社!

その後、栄一は大蔵省に出仕する時期があったものの、基本的にはフランスでの留学を生かして、民間の立場から国に貢献するために尽力します。

まずフランスで大勢の人が出資をして会社経営を行う「株式会社」を日本でも作るためにお金をプールする場所が必要であると考え、日本で初めての銀行「国立第一銀行(みずほ銀行の前身)」を作ります。

そして、銀行でお金を集めた栄一は、いよいよ念願の株式会社の立ち上げに奔走します。

 

例えば近代化に必要不可欠なガスを供給するために「東京ガス」を。

また来るであろう情報化社会に備え多くの人が新聞を手にするために製紙会社を設立(王子製紙)。

 

さらに交通の要所と思われる場所には鉄道会社など(東急電鉄、秩父鉄道、京阪鉄道)。

日本の三大高級ホテル『帝国ホテル』、日本最大の金融商品取引書『東京証券取引所』

その他、東京紡績、みんな大好き明治製菓、私もお世話になっているキリンビールならびにサッポロビール、200回成功してまぁすの理化学研究所などなど、500以上の会社を設立しました。

 

また栄一は社会活動にも強い関心を持っていて、日本赤十字社やキリスト青年会の日本の窓口、またこれからは教育が重要になると考え一橋大学や東京経済大学、日本女子大学校の設立にも携わりました。

 

さらに海外にも目を向け、日本で初めて民間外交を行い、日印協会、日本国際児童親善会、また中国で水害が起きた時には水災同情会の設立、また関東大震災は寄付金集めに奔走するなど彼の携わった社会事業は600以上にものぼっています。

 

渋沢栄一の銅像の写真
渋沢栄一の銅像

 

何というバイタリティ。

今も名前が残るこれだけの企業を作ったと考えると、渋沢栄一の偉大さが良く分かると思います。

 

新しい一万円札の顔に渋沢栄一が選ばれたのは、日本が栄一のような才能のある人物を求めているからかもしれません。

 

渋沢栄一の最期

数多くの会社や社会活動を設立した栄一は昭和6年(1931年)に92歳で死去します。

生前彼は自らの信念についてこう語っています。

「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」

 

彼にとって正しくない道理の富というのは、若い頃、代官に脅されながら献上するかのような持参金のようなお金のことを念頭に置いていたのかもしれません。

それに対して、彼はお金を預かったらそのお金をかならず有意義に使って、預け主にもリターンを返していくWin-winの関係を信念のもとに生涯を捧げました。

 

栄一にとってお金というのは手段に過ぎず、そのお金を元手にさらに多くの人が豊かになりそれを繰り返す。

それこそが資本主義の父と呼ばれる彼の夢見た理想の世界だったのかもしれません。

 



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