坂本龍馬の妻として知られるお龍。
彼女は龍馬と結婚した後、京都の旅館・寺田屋で襲われた彼を救い、日本初の新婚旅行に出たというエピソードの持ち主です。
そんな彼女はどのような人物だったのでしょうか。
刃物を持って女郎屋へ…妹たちを救った大胆すぎる行動
お龍の本名は楢崎龍(ならさきりょう)といい、父は皇族の青蓮院宮家お抱えの主治医でした。
つまり、家系としては裕福な家の出身。
明治37年12月15日「東京二六新聞」 –
美人でプライドの高い女性だったと伝わる理由はこの辺りにもあるのかもしれません。
しかし、大老・井伊直弼が一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を14代将軍にしようとする一派を弾圧した安政の大獄で牢屋に入れられ、そこで亡くなってしまいます。
そのため、家族ともども貧しい生活に追いやられることになります。
そんな中、妹たちが騙されて大阪の女郎屋(じょろうや。男性に体を売る遊女たちがいるところ)に売られるという事態が発生。
この時、お龍は刃物を持って女郎屋に乗り込み、見事に妹たちを取り戻しています。
後に結婚する坂本龍馬が手紙に「死ねる覚悟にて刃物をふところにして喧嘩をいたし…」と書いたほどの勢いだったようです。
このように強気なところがあったお龍ですが、奔放である一方で、茶道や華道、香道(香りを楽しむ会)などをたしなみ、遊びや芸事も大好きという粋な女性でした。
ただし、家事は苦手だったとのことなので、龍馬にとっては面白い女性でも、「良妻賢母」というタイプではなかったのかもしれません。
今度は龍馬を救う…寺田屋での大胆すぎる行動
お龍は龍馬と結婚すると、京都の旅館・寺田屋に預けられて働き始めます。
この寺田屋は、薩摩藩の島津久光の指示で、尊王攘夷派(天皇を中心とし、外国人を追い払うべきだという考え)の藩士たちが、同じ薩摩藩士によって斬り殺された「寺田屋騒動」が起きたのと同じ旅館です。
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その4年後、今度はそれまで物凄く仲が悪かった薩摩藩と長州藩に同盟を結ばせたばかりの龍馬が襲われます。
これが世にいう『寺田屋での龍馬襲撃事件』。
最初に異変に気づいたのは、他ならぬお龍でした。
お風呂に入っていたお龍は外で物音がするので、お風呂場の窓のすきまから外を覗いてみました。
すると槍を持った役人が何人も待機しています。
その槍がお風呂場の壁を貫くと、お龍はそこを飛び出して、裸のまま(着物をはおっていたという説もあり)階段を駆け上がって、龍馬に急いで知らせに行ったのです。
お龍の知らせを受けると、同じく異変に気づいていた龍馬は、持っていたピストルで数人の役人たちを撃ち殺しますが、多勢に無勢、乱闘の末に両手を斬られてしまいます。
龍馬はお龍を連れて寺田屋を抜け出すと、助けに来た薩摩藩士に救い出され、薩摩藩の屋敷に逃げ込むことができたのです。
龍馬の傷を治すために温泉へ…日本初の新婚旅行
両手に傷を負った龍馬は、西郷隆盛や小松帯刀らの紹介で、温泉で傷を治すためにお龍と一緒に薩摩藩に行くことになります。
当時は夫婦で旅をするというのは珍しい時代。
そのため、これが日本初の新婚旅行と呼ばれています。。
龍馬とお龍は薩摩藩の藩船・三邦丸で薩摩藩に向かいます。
この船は軍艦で、この頃女性が乗ることは禁止されていましたが、お龍は特別に乗ることを許されました。
船が入った現在の鹿児島市天保山町には、現在「坂本龍馬新婚の旅碑」という、龍馬とお龍の銅像が建っています。
龍馬は現在の鹿児島県霧島市にある塩浸温泉(しおびたしおんせん)で傷を治療すると、お龍とともに高千穂峰に登ります。
この時龍馬は、小松帯刀からカステラをもらって弁当の代わりにし、頂上ではそこに突き刺さっている天の逆鉾(あまのさかほこ)を引き抜いたというエピソードが残っています。
龍馬暗殺!その後のお龍の人生
坂本龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されますが、お龍はその訃報を下関で聞いています。
龍馬が亡くなってからのお龍の人生は流浪の日々。
最初は長州藩士の三吉慎蔵が面倒を見ていましたが、その後は土佐の龍馬の実家で暮らしています。
しかし、土佐での生活は長くは続くかず、
- お登勢を頼って京都
- 勝海舟、西郷隆盛を頼って東京
- 妹の旦那の紹介で神奈川
というように、住み家を転々と変えています。
実はお龍の評判は龍馬の周辺の海援隊士には、あまり良くありませんでした。
土佐藩士や海援隊士が、
「海援隊士たちはお龍のことを嫌っていた。生意気で龍馬の妻であることをいいことに隊士たちを見下していた。」
「美人だったけど賢くて品格のある女性かどうかは分からない。良いところもあるが悪いところも目立つ。」
※どちらも意訳
と証言しているので、かなり勝ち気な性格で、周りの人は手を焼いていたのではないかと思います。
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西村松兵衛と再婚
お龍は明治8年に西村松兵衛という商人と再婚しています。
しかし夫婦関係は上手く行かず、松兵衛とも別居するようになり、晩年はアルコール依存症のような状態になっていたようです。
酔っ払うと「私は坂本龍馬の妻だ!」と言っていたそうなので、龍馬の妻であることにプライドを持っていたのでしょう。
こういった逸話を聞くと、自己顕示欲が強く、特別扱いして欲しい女性だったのかな?という印象も受けます。
そんなお龍ですが、晩年はいろいろな人の援助を受けながら生活し、66歳で亡くなっています。
墓所は神奈川県横須賀市の信楽寺にあります。
お龍のことを知る料亭の女将がお龍について語った証言が残っています。
この証言は、お龍の晩年の様子や性格がよく分かるので、Wikipediaから引用して紹介します。
「お龍さんは、わたしより十歳ぐらい年上のお方でした。明治の中年頃に落ちぶれて横須賀に流れて来て、貧しい暮らしをしておられましたが、日露戦争の年六十八歳でさびしく死なれました。
落ちぶれても、さすがに品格のいい、きりっとした容貌のひとでしたよ。
現今でこそ坂本龍馬といえば、海軍の生みの親であり、幕末の俊傑として有名ですけれど、その頃は顧みる人もありませんで、お気の毒でしたよ。
器量のよい人であり、教育もある人でしたので、あちらこちらから再婚をしきりにすすめられて、海軍工廠御用商人の西村文平という人と同棲数年に及びましたが、龍馬さんの面影を慕って節操を侍したため、とうとう不縁となり、またもとの独り身になって、女髪結の手伝いなどして、お酒にひたって傷ついた心を慰めておられました。
お国のために尽した人でもあり、その半生はお気の毒でなりませんでした」
wikipedia お龍
お互い型にはまらない性格だった龍馬とお龍。
破天荒な2人の性格は一般の感覚からすると理解し難いものだったのかもしれません。
しかし、そんな2人だからこそ、自分と似たタイプの龍馬(お龍)の存在は、特別なものだったのかもしれません。
龍馬が暗殺されてからのお龍の人生は決して裕福ではなかったようです。
ただ、何だかんだいいながらも周囲の人の援助で余生を全うできたということは、龍馬を失ったお龍の悲しい心の内を理解してくれる人がいたからだと思います。
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