基本的には花燃ゆの話題を書いていこうと思っているこのブログですが、現在放送中の軍師官兵衛を見ていて気になったことも織り交ぜてみることにしました。

軍師官兵衛の登場人物に関してはある程度、どういった人かというのは分かるのですが、たまに???な人物も登場するので、備忘録という意味も含めて記事にしていきます。

そこでまず気になったのが黒田熊之助

黒田八虎にも名を連ねていないのですがどういった人物なのでしょうか?

 

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待望の男の子

黒田熊之助は1582年の賤ヶ岳の戦いの時期に黒田官兵衛と光姫の間に生まれます。

長男の長政とは15歳も年の離れた子供となり、将来は長政の右腕として期待される存在でした。

 

羽柴秀吉の天下取りを支えた弟の秀長。

武田信玄の右腕として活躍し、人望も厚かった弟・信繁。

黒田家で言えば、黒田職隆には休夢、官兵衛には兵庫之助、利則、直之といった弟でありながら黒田八虎にも名を連ねる家臣がいました。

この様に血の繋がった兄弟というのは乱世を行き抜くにあたって、とても心強い存在だったので、熊之助にかかる期待も大きかったと思います。

 

そして何より、長い間子供ができなかった、官兵衛と光の間にできた待望の子供が男の子だったと言うのも、さらに喜びを倍増させたのではないでしょか。

 

哀れな最期

しかし、結果から言うと熊之助は若くしてその命を落す事になります。

第2次朝鮮出兵で官兵衛や長政が朝鮮に渡っている時、16歳と若かった熊之助は中津城の留守居役を勤めていました。

その他にも母里太兵衛の子供である吉太夫や黒田一成の弟・吉松が中津城に滞在していました。

 

軍師官兵衛

 

ある時、熊之助は官兵衛や長政の陣中見舞いに駆けつけるために、吉太夫や吉松を伴って豊前から船に乗って朝鮮を目指します。

しかし、不運にも暴風雨に合い玄界灘で船が沈没し、全員溺死してしまったと伝わります。

熊之助の周囲には若い家臣が多かったので、黒田家は次代を担う若い力をいっきに失ってしまう事になります。

戦で命を落すのなら、武士の名誉と踏ん切りがつくのかもしれませんが、海難事故となると官兵衛や太兵衛は無念でしかたがなかったでしょうね。

 

若気の至り?

一説には若くて血気盛んだった熊之助は留守居役にされた事を不満に思い、戦場で手柄を立てたいと独断で朝鮮に渡ろうとしたとも言われています。

兄である長政の性格を考えると、この熊之助の手柄を立てたいという思いの強さは考えられなくない気がするのは私だけでしょうか?

もしかすると、若さゆえに戦場に出たいという衝動を抑えられなかったのかも知れませんね。

ただ、当時の船で海を渡ると言うのはかなりのリスクがあったはずなので、もし熊之助達の独断だとしたら無謀と言われても仕方ありません・・・。

江戸時代になって黒田家にお家騒動が起こるのですが、この時に若く優秀な人材が失われた事も原因なのではないかと思います。

 



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