安藤守就は斎藤道三や義龍に仕え、のちに織田信長の調略に応じて織田家の家臣となった人物。
斎藤家に仕えている時は稲葉一鉄、氏家卜全(ぼくぜん)と共に「美濃三人衆」の1人に数えられていました。
美濃三人衆というのは、斎藤家で重要な地位を占める家臣の名称。
安藤守就はそれほど名前が知れた武将だった訳です。
また、竹中半兵衛を娘婿にしているので、半兵衛の義理の父親ということになります。
そんな安藤守就ですが、信長に仕えた後は織田家を追放され、非業の最期を遂げることになってしまいます。
西美濃三人衆の一人で、五人の君主に仕える
安藤守就は稲葉一鉄、氏家ト全と並ぶ西美濃三人衆のうちの一人です。
彼ははじめ美濃国の守護大名である土岐頼芸(ときよりあき)に仕えていましたが、美濃国が斎藤道三(さいとうどうざん)に乗っ取られると、道三の家臣になりました。
そしてその後、道三と道三の嫡男である義龍(よしたつ)との抗争では義龍に味方し、義龍の死後は道三の孫である龍興(たつおき)に仕えます。
この後、守就は義理の息子(娘婿)になった竹中半兵衛とともに、稲葉山城を乗っ取るクーデターを起こします。
稲葉山城を乗っ取った半兵衛と守就は領国経営に乗り出しますが、思うように領民や斎藤家家臣の支持を得られず、最終的には龍興に稲葉山城を返却。
そして、信長が美濃に侵攻してくると調略に応じ、そのまま織田信長の家臣となっています。
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竹中半兵衛と共にクーデターを起こす
守就は戦国時代の天才軍師と呼ばれる竹中半兵衛の舅でした。
彼らは共に策を練り、斎藤龍興の稲葉山城を一時的に乗っ取ります。
というのも守就は龍興とあまり馬が合わなかったのです。
龍興は父・義龍の死後わずか14歳で家督を継いでいます。
祖父や父と比べ凡庸だった龍興は、信長の進行などの外的要因も合わさり、いまいち家臣達の信頼を得ることができませんでした。
守就は彼の祖父の代から斎藤家に仕えているわけですから、特にアレコレ口出ししたいことも多かったことでしょう。
しかし龍興はある一部の家臣をかわいがるばかりで守就らの話には耳を傾けようともしません。
くわえて酒色におぼれ、暗君とまで呼ばれる有様。
「このままではいかん。君主の道を正さねば!」と、まずは半兵衛がわずか十六人の兵士で城内から謀反を起こします。
守就もまた城下を二千人余りの勢力で制圧し、結果的に彼らは龍興を城から追い出すことに成功したのです。
半兵衛、守就が城を占拠していた期間は約半年間。
その後稲葉山城は龍興に返還され、守就らはまた斎藤家の家臣に戻ります。
下克上がしたかった――というよりは、聞かん坊の暴れん坊からオモチャを取り上げるような感覚だったのでしょうか。
それとも他の重役たちが謀反に賛同しなかったためか、そのあたりには諸説ありますが、とにかく龍興と守就の間に忠義のようなものがあったわけではないことは、おそらく間違いないでしょう。
それを裏付けるように、彼は翌年、他の美濃三人衆と共に信長側に寝返ります。
信長の軍勢が美濃の中部まで入り込んでいたため、このまま龍興のもとで戦うより、信長の配下となったほうが利が多いと判断したのでしょう。
三人衆に見限られた龍興は、たちまち城を追い立てられてしまったのでした。
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信長の家臣として働くが、内通の疑いを賭けられて追放される
武将の力は主君によって大きく左右されるとはよく言ったもので、信長の手下となった守就は、これまで以上の働きをして見る間に戦果を挙げていきます。
1577年には柴田勝家の援軍として加賀に向かい、1578年には羽柴秀吉の中国攻めに援軍として参加するなど、歴戦の武将の働きをしてみせたのです。
しかしその二年後、彼は唐突に、武田勝家(信長の敵)に内通したものとして、突然追放されてしまいます。
これには信長が、かつて美濃で力を持っていた守就の存在がうとましくなりはじめたから、という説もありますが、その真偽のほどは分かっていません。
身を粉にして働いた守就ですが、結局は城を追い出されてしまったのです。
起死回生ならず。美濃三人衆の稲葉一鉄に敗れて自害
本能寺の変で織田信長が亡くなると、守就はここぞとばかりに再起を試みます。
息子である定治と共に兵を挙げ、かつて自分が城主だった北方城を奪い取ったのです。
当時、北方城は稲葉一鉄が治めていた城。
つまり、守就はかつて同じ美濃三人衆と呼ばれた仲間の城を攻めた訳です。
守就は戦の経験も豊富で、決して戦下手ではありませんでしたが、この時ばかりは稲葉一鉄の方が上手でした。
織田家を追放されて軍勢や装備が整っていなかったというのもあるのかも知れませんが、反撃に出た一鉄に守就は敗北してしまいます。
守就の最期は一鉄に討たれたとも、一族共に自害したとも伝わっています。
己の目で常に仕える相手を見定め、ある時は裏切り、ある時は裏切られ、生きるために多くの主君に仕えることとなった守就。
しかし最後の最後には、城を追われて路頭に迷うのではなく、名誉を取り戻すために一族共に戦って命を散らしていきました。
全体を通して不器用で野心家というイメージが強い武将ですが、それにしても再起を図るためとはいえ、かつての同僚の城を攻めるってなかなかですよね。
返り討ちにした稲葉一鉄の心境はどんな感じだったのでしょうか?
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