真田安房守や左衛門佐・伊豆守といった戦国武将の官位について!!

歴史ものの話では、しばしば人物の名に役職・官職が付いてくることがあります。

 

これらを完全に網羅することははっきり言って数十年も研究している学者でさえも難しいことです。

 

まして普通にエンターテイメントとして見ているだけの人からしたら、誰が何なのかさっぱりわからないはずです。

 

歴史ものが苦手な人からよく聞く声としては、「名前が長い」「どこからが名前かわからない」というものがあります。

 

まあ、これは無理もない話です。

 

今でも無駄に役職が増えている政府や会社だと、新しいものほど名称が長くてかつそれいるの?というものばかりですから。

 

そこで今回は、そうした戦国武将らが持っている官位について完全網羅・・・というのは冗談で、誰がどれだけ偉いのか、誰よりも上なのかということを少しでもざっとわかることができるようにお話ししましょう。

 

日本の官位の特徴

まず、日本の官位は何が面倒くさいかというと基本的には全て訓読みなので読んでいても歯切れが悪い。

 

そこで、まずはどういう制度なのかということから説明していきます。

 

日本の官位では、基本的に正一位、従一位というような「官位」があり、それに相当する「役職」が割り当てられます。

 

最も高い官職は正一位です。

 

しかし、正一位の場合はどの殆どが既に高位高官を得て死んだ者が死後に追贈されて就くので、生前に就任可能なものは事実上その次の従一位だと考えていいでしょう。

 

そこから、正二位、従二位、正三位、従三位と続き、四位からは正四位上、正四位下、従四位上、従四位下・・・という調子で従八位下まで行ったところで大初位上、大初位下、少初位上、少初位下となり、以上で位階が終わります。

 

○○守、いわゆる地方の領主になるのは従五位下(じゅごいのげ)、下級の国司だと正六位上(しょうろくいのげ)からスタートします。

 

それより下の官位では丞、尉といったいわゆる副官のような地位が並びます。

 

これは古代中国から続く官職制度の流れを大宝律令の時に真似て、それがそのまま明治維新になるまで基本方針として継続していった結果でもあります。

 

但し、日本特有の役職名もあり左馬助(さまのすけ)などは中国では見られない名前です。

 

ちなみに、こうした役職名にはだいたいの場合唐名(からな)という中国での呼び方を通称で呼びます。

 

関ヶ原の戦いで家康はベストタイミングで寝返りをやらかした小早川秀秋に対して「金吾よ、でかしたぞ!」と言ったと伝わります、この金吾とは中国の「執金吾(しつきんご)」という官職に由来します。

 

Kobayakawa_Hideaki

 

当時の小早川秀秋は左衛門督(さえもんのとく)という役職に就いており、元の名前が秀俊だったことから金吾秀俊という通称がありました。

 

どちらも皇室の警備に連なる役職で、日本では衛門府(えもんふ)と呼ばれる役職の中の一つでした。

 

古代中国では人を本名で呼ぶことは呪詛をかける行為だとして嫌われていました。

 

日本でもその傾向は強いようで、例えば家族以外の者が「おい、真田信繁」などと呼ぼうものなら斬られても文句は言えません。

 

そこでマナーとして姓と役職で呼ぶことが普通でした。

 

例えば明智光秀なら「明智日向守(あけちひゅうがのかみ)」、その娘婿である明智秀満なら「明智左馬助(あけちさまのすけ)」など、少々長かろうとも役職で呼ぶことで誰なのかをはっきりさせるという意味もあったようです。

 

真田丸でも真田昌幸の事を真田安房守(あわのかみ)と呼んでいますよね?

 

Sanada_Masayuki2

 

安房とは千葉県の一部の地域の事なので、現代で言うと、真田市長といった感じでしょうか?

 

似たような意味で女性の本名も容易にはは呼べませんでした。

 

そういう場合は由来のある地名を冠することが多く、例えば豊臣秀頼の母・茶々は淀城に住んでいたことがあるから淀殿という風に呼んでいました。

 

それがいつしかその人の代名詞になっていくこともまちまちです。

 

最後に、朝廷内では現在名乗っている姓名の他に源・平・橘・藤原のように天皇家に連なる姓などを名乗って官位表に載せられます。

 

織田信長は桓武平氏の子孫を自称していたので平信長。

 

伊達政宗は祖先を辿ると本当に藤原氏に到達するので藤原政宗。

 

そして真田信繁は秀吉から朝廷用に豊臣姓を頂いていたので豊臣信繁と名が載っています。

 

真田、伊達、毛利といった姓はその昔あまりにも藤原、源、平が増えすぎために「お前らややこしいから今後は自分の土地の名前を名乗りなさい!」と朝廷が命令したことが始まりみたいです。

 

真田親子の官位・役職

だいぶ当初の話とはずれましたが、お次は『真田丸』から真田親子の官位・役職に就いて見ていきましょう。

 

まず、主人公の信繁は最終的に従五位下・左衛門佐(さえもんのすけ)になりました。

 

これは1594年の段階で秀吉によって与えられ、以後死ぬまでそのままでした。

 

兄・真田信幸は信繁と同じ日に従五位下・伊豆守(いずのかみ)になります。

 

Sanada_Nobuyuki

 

それから時期は不明ですが少なくとも秀吉が生きている頃に従四位下・侍従に昇進し、伊豆守を兼任します。

 

この時点で信繁よりも上位です。

 

そして父・昌幸は時期はよくわかりませんがおそらく秀吉時代、従五位下・安房守(あわのかみ)に任じられています。

 

それ以後は昇進していません。

 

パッと見では昌幸が信幸よりも格下じゃないかとの感想を抱きますが、それよりも昌幸・信幸が『守』、つまり領主であるとされているのに対し、信繁は中央官ではありますがこれでは領地がありません。

 

(ここでいう領地がある、ないというのはあくまでも官位表、つまり理念上の話だと思ってください。実際は明智光秀みたいに日向守でも日向(宮崎県)に行ったことがない人がいるように名前だけの場合がなんとも多いです)。

 

実はこの時点で既に昌幸と信幸は別の家だと位置づけられていた可能性もあります。

 

信幸は本多忠勝の娘・小松姫を妻として徳川家で地位を築いていました。

 

小松姫は信幸と結婚する際に名目上家康の養女になっています。

 

徳川は真田とは比べるまでもない大大名。

 

同じ時期に官位を授かった家康の次男・結城秀康は三河守(みかわのかみ)と同時に様々な役職にも就いています。

 

つまり、信幸は家康の息子と似たような待遇である義理の婿、同じ従五位下でも守の役職がない信繁とはまるで重みが違うのです。

 

ある学者はこうした対比から信繁は領地をもらってない分、昌幸の後継者としての地位を確立したのでは?との意見を主張していますが、要するに信幸が昌幸の手を離れて別家として成り立っていたということを考える必要があるということではないでしょうか?

 

官位をざっと見てみるだけでも、こうした発見があるのはとても面白いですね。

 

官位から見る関ヶ原の戦い

なんだかんだ言って、関ヶ原の戦いは日本全国の大名が総動員で活躍した随一の戦乱です。

 

西軍・東軍のどこかに所属している有名人は必ずといっていいほど官位を持っています。

 

ここでは関ヶ原の戦いでは官位がどのような関係を持っていたのかを調べてみましょう。

 

東軍の大将・徳川家康の当時の官位は正二位・内大臣です。

 

Tokugawa_Ieyasu2

 

先述した通り従一位が事実上のナンバー1である以上、正二位というのは事実上ナンバー2です。

 

家康は秀吉が制定したいわゆる五大老の1人でもありました。

 

他の五大老の面子を見てみると、前田利長(利家の後を継ぐ)・従三位・権大納言(ごんだいなごん)、宇喜多秀家・従三位・権中納言(ごんちゅうなごん)、上杉景勝・従三位・権中納言、毛利輝元・従三位・権中納言でした。

 

石高で言っても、家康256万石、利長83万石、秀家57万石、景勝120万石、輝元120万石と明らかに他の面子と比べて格上です。

 

当時の従一位は柳原淳光という公家の人物、秀頼は家康の後任の内大臣、つまりこの時点では確実に格下です。

 

家康はこの時点で官位としては武家の頂点に立っていました。

 

そのため、家康には最終的に多くの大名が従わざるを得なかったのです。

 

次に西軍の大将は毛利輝元ですが、先述の通り従三位・権中納言であるため、官位としては武家ナンバー2です(豊臣家は関白など、公家路線に走っていたためここでは考えない)。

 

しかし、輝元はその実家康にもこっそり内通していました。

 

但し、宇喜多・上杉は本当に反徳川で実際に反抗しています。

 

これら大大名を決起に導くきっかけとなった石田三成ですが、彼の官位・役職は従五位下・治部少輔(じぶしょうほ)に過ぎません。

 

真田信繁と同じく名目上は領地無し、秀吉からもらった近江佐和山はちょっと言い過ぎかもしれませんがある意味では秀吉個人の裁量で与えた領地、名目としては朝廷から頂いた土地ではないので感覚としては秀吉からの小遣いだとイメージしましょう(あくまでもイメージです)。

 

だいたい従五位下くらいが一般的に大名と呼ばれるクラスの人がもらっている官位なので、大谷吉継の研部少輔(ぎょうぶしょうゆう)、石田三成の治部少輔(じぶしょうゆう)、加藤清正の主計頭(かずえのかみ)、真田信繁の左衛門佐(さえもんのすけ)といった従五位下やその下くらいの役職の人は関ヶ原の戦いに参加していた人の中にゴロゴロいます。

 

なので、官位を持っているくらいならそれほど驚く話ではないようです。

 

関ヶ原の戦いの時点で家康より上位の武家はいません。

 

しかし、西軍に付いて反乱を起こしたのが自分に次ぐ上杉景勝や毛利輝元、宇喜多秀家となれば話は別です。

 

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関連記事⇒毛利輝元は本当に無能なのか?再評価される日はいつ?

 

前田利長も最初は父の遺志を継いで反家康でしたから、家康にとっては五大老は全員敵だったのです。

 

あるいはそれらと縁故の大名が束になって寝返れば何が起こるか分かったものではありません。

 

その不安が現実化したのが関ヶ原の戦い、そしてそれに伴う諸大名の反逆でした。

 

真田昌幸や織田秀信の離反はその中の一環でした。

 

一方、三成は自分単独では諸大名を動かせるほどの力はないとわかっていたようで家康以外の五大老の力を利用しようとしたのはとても賢い選択でした。

 

裏切者の小早川秀秋にしたって、元関白候補ですから官位の上では三成よりも上位です。

 

関連記事⇒小早川秀秋の死因は大谷吉継の呪い?関ヶ原での裏切りの理由!

 

そうした政治的側面を巧みに利用した三成は決してただの陰湿な頭でっかちではなく、相当に頭の切れる人でしょう。

 

毛利の内通などが一切なく全てが三成の思うがままに動いていたら関ヶ原でも西軍が勝っていた可能性は十分にありましたが、家康と三成では発言の重さが違いすぎました。

 

国一つ動かすとなると、どうしても運や局地的な戦術だけではどうにもならないというのがよくわかるのが関ヶ原の戦いです。

 

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まとめ

いかがでしたでしょうか?

 

官位は何も歴史上のみの出来事ではありません。

 

実社会でも肩書は想像以上に人の心を動かします。

 

家康は江戸幕府を開く際に秀頼の再起を阻止するために関白の位を朝廷に返上し、征夷大将軍を唯一無二の最高職に祭り上げてしまいました。

 

政治の駆け引きでは、こうした地味な積み重ねが一発逆転の切り札となるのです。

 

歴史を学ぶ人は、必ずある程度の段階で制度史を学ぶことになります。

 

それは、こうした国の仕組みが世の中を学ぶ上でとても重要な意味を持っているからです。

 

ドラマでは何だか呪文のような官位ですが、名刺と同じで上下関係をはっきりさせ人物の立ち位置を認識するにはこの上ない材料なのです。

(文・いちたか風郎)

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