織田信長。
日本人なら誰もが知っているこの名前を聞いて、あなたはどんな人物像を思い浮かべますか?
一般的な織田信長のイメージは短気で激情家、誰の追随を許さない苛烈な人物というものです。
確かに彼の所業の中には現代からするととても信じられないような事も数多くあります。
そういった意味では、現代に信長がいたらブラック社長と言われても仕方がないのかもしれません。
しかし、それはあくまで当時の風習をよく知らない後世の人間が評したこと。
たしかに一部にはそんな一面もあったでしょうが、全てではないはずです。
今回は、誰もが知っているはずのヒーロー「織田信長」の一般的なイメージと、あまり知られていない人物像について迫っていきましょう。
ルイス・フロイスが記した織田信長の性格
織田信長がどんな人物だったのかに迫っていくために、今回は信長の庇護を受けていた宣教師、ルイス・フロイスが記した織田信長評をご紹介したいと思います。
これは、母国に日本の様子を報告するためにポルトガル語で書かれたものなので、信長に都合のいい文章にする必要がありません。
そのため、最も信長の性格を表している文章ではないかと思います。
一般的によく言われるのは「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という歌に表されるように、信長の性格を簡単に言うと短気で激情家というイメージですよね。
信長は敵対したり、自分を裏切ったりした者やその一族は女、子供まで容赦なく処刑しています。
比叡山の焼き討ち、荒木村重一族の処刑などがそれにあたります。
その他にも、信長を暗殺しようとした杉谷善住坊という人物を捕らえると、首から下を土に中に生め、わざと切れ味の悪い竹のノコギリを使って少しずつ首を切り落としたとも言われています。
とにかく一度頭に血が上ると、少々の事ではその怒りは収まらなかったようです。
ルイス・フロイスから見た織田信長
ここで本題のフロイスの信長評を簡単にまとめてみましょう。
- 中くらいの背丈でヒゲは少ない。
- 戦を好み、修練に励み、名誉心に富み、正義に厳格であった。
- 性急な性格ですぐに激昂するが、普段は大人しかった。
- 人から侮辱されると許してはおかなかった。
- 人情味と慈愛を示すこともあった。
- 家臣の言うことは聞かず、極めて畏敬されていた。
- 神や仏、宗教的なことには否定的だった。
- 自宅は清潔で、綺麗好き、身分の低い家臣とも親しく話をした。
- 人に対しては「貴様」という呼び方をした。
- 家臣の身分に関係なく、裸で相撲を取らせるのが好きだった。
いかがでしょうか?
実際に信長の横で、信長という人物を見ていたフロイスが記した信長評です。
家臣に相撲を取らせるのが好きだったことや、人を呼ぶときに「貴様」と呼んだというのは、リアリティがあって面白いですよね。
そして、信長の能力に関しては、
- 戦術には老練、戦況が悪くても忍耐強く、明晰な判断力を持っていた。
- 難しい事に当たるときは大胆不敵で、家来たちは信長の言葉に服従した。
- 信長は稀に見る優秀な人物で、優秀な司令官として、賢明さを持って国を治めていたのは間違いない。
と記しています。
こういった記録を見ると、やはり、戦術を練ることや、戦場における判断力は、他の戦国武将を凌駕するような、天才肌であったような気がします。
本能寺の変の様子
少し話が逸れますが、ここで本能寺の変の際の様子も紹介しておきたいと思います。
これはルイス・フロイスの報告ではなく、実際に本能寺に攻め込んだ本城惣右衛門という兵士の覚書に記されている様子です。
本能寺の変と聞くと、明智光秀軍との戦闘の後、紅蓮の炎に包まれる本能寺の中で信長が切腹をするといったイメージかと思います。
これはドラマなどの映像でもよく描かれるシーンですね。
ただ、実際はこういったイメージとは異なっていたようです。
本城惣右衛門の覚書を見ていくとこうあります。
まず、惣右衛門は中国地方の毛利攻めに向かうと思って明智光秀の軍に従軍していました。
しかし、急に京都方向への進軍になったため、毛利攻めではなく徳川家康を討つのだと思ったそうです。
惣右衛門のような下っ端の兵士でも、徳川家康を討つと思っていたということは、当時の織田家と徳川家の間には、現代には伝わっていない何か険悪なムードがあったのかも知れません。
惣右衛門は本能寺に入る前に門番の首を取り、本能寺の門を開けたところ、門は簡単に開き、中にはねずみ一匹いないほど静かだったと記しています。
この時点で、信長側は全く襲撃に気づいておらず、完全に不意を突かれた事が分かります。
そして、本堂に入っても侍は一人もおらず、女を捕らえたところ、「上様は白い着物を着ています」と言ったそうですが、ここでも「上様」=「織田信長」であることは分からなかったそうです。
その後、何人かの侍が明智軍に討ち取られ、惣右衛門も一人の首を取り、褒美に槍を貰ったという記述で終わっています。
信長の最後などの記述はないのですが、実際に現場にいた人物の覚書だと、私達の持つ、本能寺の変のイメージとは全く違っています。
惣右衛門も、まさか信長様に腹を召させるとは思ってもいなかったと記していて、明智光秀が織田信長を討つという風潮などは全くなく、むしろ徳川家康を討つと思っていたと言う部分はとても興味深いです。
平成に入ってからの発掘調査で、本能寺が焼けた形跡が発見されていますので、惣右衛門の覚書のように、大きな攻防がなかったとすれば、信長側が寺に火を放ったのは間違いないようですね。
信長の魅力
再びフロイスの話に戻ります。
南蛮性の鎧や兜を被っているイメージの強い信長。
マントを羽織たりとその南蛮物好きはかなりのものだったようです。
しかし、フロイスが目覚まし時計をプレゼントすると、扱いが難しいし、修理もできないだろうからと、残念そうに返したと言われています。
もしかしたら信長は、時計というものをあまり理解できなかったのかもしれませんね?
(これだけ破天荒な人が修理の事とか考えるんだ)と、個人的にちょっとかわいいなと思った信長のエピソードです。
その他の逸話
ただ、やはり基本的な信長のイメージといえば、とても怖くて強烈、それに誰の追随を許さないという苛烈な人物像です。
信長の所業の中には現代からするととても信じられないような事も数多くあります。
そんな意味では、現代に信長がいたらブラック社長と言われても仕方がないのかもしれません。
しかし、それはあくまで当時の風習をよく知らない後世の人間が評したことで、そんな一面もあったでしょうが全てではないはずです。
そこで、信長が行った所業をもう少し詳しく見ていみましょう。
比叡山の焼き討ち
信長の所業の中で最も残虐とされる行動は比叡山の焼き討ちです。
比叡山は台宗随一のお寺で、当時は聖地とされていました。
当時の信長は浅井・朝倉と対立しており、姉川の戦いで勝利したとはいえ、本願寺と手を組んだ一向一揆や浅井・朝倉、三好三人衆に不意を突かれて危機に陥っていました。
信長は足利義昭を擁して京都に入ったと同時に本願寺に城の明け渡しを要求しましたが、本願寺はこれを拒否。
ここで、織田と本願寺の間で対立が起きます。
当時の織田家は浅井・朝倉・本願寺・武田等によって包囲されておりとても危険な状態でした。
中でも武田信玄は自身が仏門に入っていたことから仏教の保護者としての大義名分も持ち合わせていました。
信長はそこで包囲網を脱却するために、交通の要所となる比叡山延暦寺を攻略することを画策しました。
比叡山も浅井・朝倉に協力していたので信長からすれば敵の一勢力だったのです。
当時の比叡山の主は正親町天皇の弟・覚恕(かくじょ)でしたが、聖地とは名ばかりで実際は女人禁制でありながら数多くの美女が比叡山に入山しており、その風紀は乱れていたといいます。
信長は事前に明智光秀や池田恒興とった主だった家臣に国人の懐柔工作を行い、このあたりの勢力を自分になびかせるように仕向けていました。
1571年(元亀2年)、信長は3万の兵を率いて比叡山に討ち入り、ついに大虐殺が行われました。
僧侶、児童、智者は構わず殺され中にいた美女や小童は捕らえられました。
この時の死傷者数は『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には1500人、『言継卿記(ときつぐきょうき)』には4000人と記されています。
焼き討ちの際には覚恕は不在でしたが、信長に抵抗したことを問責されたので行き場を失い武田信玄を頼って落ち延びました。
信玄はこれを受けて自らも僧侶であることを理由に打倒信長の大義名分を得ました。
信玄はこの時に書面にて天台宗の僧侶である『天台座主(てんだいざす)』を名乗りましたが、信長はこれに対抗して『第六天魔王』を名乗りました。
仏教の中で、第六天とは物欲の世界、つまり第六天魔王とは物欲の魔王、俗世の魔王という意味でした。
当時の比叡山の風紀の乱れと仏門の名を騙る退廃した金持ちであった彼らに対し、信長は自分が天に代わって世を懲らしめるという抱負をこの時から掲げたのです。
残虐という発想は負けた比叡山側の供述で、実際は比叡山も本来の姿とはかけ離れた状態でした。
そう考えると、信長だけが不必要に攻められるのはおかしいのかもしれません。
裏切られたら徹底的に
信長は自分を裏切った人物に関しては一部の例外を除き、徹底的に追及していきました。
その代表例が浅井長政。
浅井長政は信長の実の妹であるお市の夫でしたが、浅井と同盟している朝倉義景と信長が戦を始めると、長政は信長を裏切り織田勢に対して攻撃を開始します。
浅井は代々朝倉と同盟を結んでいたので、いくら信長の命令とは言え、長政は朝倉との同盟を破棄することはできなかったようです。
この浅井の裏切りによって信長は窮地を迎えますが、要であった信玄が西上途上に病死すると形勢は一気に逆転。
朝倉と浅井はかくして間もなく滅亡し、信長の勢力は北陸にまで及ぶこととなりました。
信長は翌年の新年会で、朝倉義景・浅井長政・浅井久政(長政の父)のガイコツに金箔を施して披露したという逸話もあります。
譜代家臣でも容赦なくリストラ
信長が裏切り者を追い詰めた話はまだあります。
1580年(天正8年)、信長は林秀貞、安藤守就、といった家臣を突然追放してしまいます。
彼らは長きにわたって信長に仕えた功臣であるというのに、24年も前の謀反嫌疑によってその地位を失ってしまうのです。
これに関しては彼らがそろって高齢でありながら大した功績も挙げられず、あまつさえ本人にも汚名返上の意志がさほどなかったことが遠因として挙げられています。
ここから見ることができるのは、信長はとても働かない者、使えない者には容赦ないという一面です。
ある意味当然のことですが、揃いも揃って老年の功臣。
おとなしく隠居命令を出せば済む話なのに、わざわざ追放という処分にしたのは信長らしいと言えるのかもしれません。
さらに、信長とはず~~っと苦楽を共にしてきた佐久間信盛も同じように突如問責を受けて追放という処分を受けています。
この追放は、既に天下を半ば制し家督も信忠に譲った今、旧態依然とした家同士の対等な関係を引きずる彼らは、これから始まろうとしている信長統一政権には邪魔な存在だったのかもしれないという解釈がされています。
信長は公的な人物としては極めて合理的な人物だったのかもしれません。
ただ、それがどうしても温情を重視する我々の国民性からしたら非道に見えてしまいますよね?
家族には優しかった信長
天下人として一流の公的人格を持たざるを得なかった信長ですが、私生活・家庭面、それに忠実な家臣に対してはとても優しい性格だったと伝わります。
信長は当時としては珍しく女性にとても気を遣うことで知られていました。
秀吉と寧々の夫婦喧嘩を仲裁したことは有名ですし、彼には何人もの娘がいましたが娘は揃って苦楽を共にしてきた家臣の妻となっています。
また、信長が最も寵愛したのは最初の妻となった生駒氏です。
彼女は信長よりも年上でしたが、信長は彼女との間に信忠・信雄・徳姫(松平信康の妻)を儲けています。
諸説ありますが、生駒氏はその寵愛ぶりから側室でありながら正室待遇を受けていたとまで言われています。
他にも、尾張に妻を残して美濃に仕事に行った部下を信長は叱責したとの話もあり、信長は家庭も大事にするいい男だったと言えます。
そして、信長にはある苦手なものがありました。
それは何とお酒です。
彼はイメージとは裏腹に下戸でした。
さらに信長は宴会の際には自ら女装して舞を披露したという逸話も残されています。
意外とそういうのが好きだったのでしょうか?
他にも、信長は意外にも安土城完成の際には庶民に一般公開したとも伝わり、工事の際には自ら音頭を取って行動していたとも伝わります。
威圧的な主君というのはあくまでも公的な人格で、彼は本当はこうした庶民の世界を好む優しい性格だったのかもしれません?
まとめ
いかがでしたでしょうか?
信長については後世様々な解釈が行われており、今現在まで彼の人格ははっきりしません。
とても厳しい人格だったというのは間違いなさそうでしょうが、どうもそうした行いは最期の数年間に集中しているような気もします。
それ以前はとても慎重だった信長は天下を目前とするに至ってこれまでにない興奮に見舞われ、それが恐怖の人格へと変わっていったのではないでしょうか?
有名な伝説として、本能寺の変のきっかけとなったと言われる光秀折檻がありますが、これももしかしたら晩年の信長の傲慢が招いた失策だったのかもしれません。
ルイス・フロイスが書き残した信長の性格。
これを読めば読むほど、リアルな信長の人柄が浮かび上がってきます。