スポーツの試合などで、優勝が決まるような重要な試合のことを「天王山」と呼ぶ事があります。
この天王山という言葉は羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦からきていることを知っていますか?
実際の戦闘は天王山という山ではなく、山崎という今の京都の西にある場所で起きました。
(現在、サントリーの蒸溜所がある場所の近くです)
山崎の地にある天王山という山を押さえた方が戦いを有利に進める事ができる。
軍事的に有利な山を最初に占領した方が圧倒的優位になるため、ここ一番の戦いのことを天王山と呼びます。
本能寺の変で織田信長を討ち果たした明智光秀と、それを阻止すべく中国大返しという荒業を成し遂げて山崎までやってきた羽柴秀吉。
山崎の戦いはまさしく、どちらがこれからの天下の舵取りを担うのかを分けた天下分け目の戦でした。
結果的にはこの戦いに勝利した秀吉がこの後天下取りへの道を歩み、敗北した光秀は農民に殺されるという雲泥の差がついてしまいます。
では、どのように勝敗が決まり、なぜ光秀は負けてしまったのでしょうか?
両者がどのような作戦で戦いが進んでいったのかは知らない方も多いと思います。
それで今回は、両者が山﨑へと向かう道筋と、光秀がなぜ負けてしまったのかなどを分析しながら見ていきましょう。
秀吉側の動きと光秀側の動き
まず秀吉の動きを振り返っておきましょう。
毛利攻めに出陣していた秀吉は今の岡山県にある備中高松城を攻めていました。
本能寺の変の知らせを受けて毛利家と和議を結び、高松城から5日ほどで尼崎まで戻ってきた秀吉はさっそく味方を集め始めます。
秀吉は「実は信長は生きている」など、巧みに情報操作をしつつ、光秀が重要視していない大阪方面の大名の味方を募ります。
この情報を聞きつけた織田信孝や丹羽長秀などが秀吉に合流。
秀吉の軍勢(名目上の総大将は織田信孝)は2万を超える大軍勢となり、京都を目指して進軍していきます。
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一方の光秀は、秀吉たちが姫路から京都へと進軍している間に安土城に入城。
安土城の名物を家臣たちに与えたり朝廷に銀を献納するなどして、近江方面の制圧をしつつ京都の治安維持をしています。
光秀が東の近江方面へとやってきたのは、中国地方からやってくる秀吉よりも北陸地方から戻ってくる柴田勝家を警戒しての行動だと思われます。
さらに光秀は丹後の細川幽斎・忠興親子や大和の筒井順慶らに味方になるよう呼びかけますが反応はイマイチ。
そんな時に「秀吉が西からすんげえ勢いで戻ってきてる」という報告を受けます。
摂津の大名衆や丹羽長秀らと合流し、兵力を増やし続けながら京都に向かう秀吉軍。
かたや、まともな根回しができずに迎え撃たなければならなかった明智光秀。
この兵力の差が山崎の戦いの決着の大きな要因の一つとなっています。
信長光秀の野望(超超超超超高難度)
状況は良くはありませんが、決して光秀は勝利を諦めていたわけではありません。
非常に苦しい展開ではありましたが、光秀は秀吉に勝つための算段を立てていました。
まず光秀は勝竜寺城などの城に立てこもる篭城戦をしようとはしませんでした。
光秀が本陣を置いた場所は2011年の発掘調査により長岡京市の恵解山古墳のあたりだということが分かっています。
全体で400mの堀と南側に流れる小泉川が自然の水堀として機能した守りに適した陣地です。
即席の防衛陣地にしてはかなり本格的なものでした。
それに何より光秀は当時織田家の中でも随一と言われる鉄砲衆を持っており、光秀自身も凄腕のスナイパーでした。
という訳で、突然ですがここであなたに質問です。
川を横にした布陣。
それに土塁と堀を配置してそこを大量の鉄砲で迎え撃つ。
このワードを聞いて何か思い出すことはないでしょうか?
そうです。
実はこの布陣は長篠・設楽ガ原の戦いで武田勝頼を破った布陣とソックリなのです。
実は光秀が最も警戒していた相手は先程も少し述べたように秀吉ではなく、背後に来ている柴田勝家。
そして、その後に攻めてくるであろう徳川家康でした。
ですから光秀がこの山崎の戦いで必要としたのは辛勝ではなく「完全勝利」。
自陣の被害をほとんどなしにして戦いに勝つことだったのです。
……なんちゅう修羅モードや。
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ここでお天気です。明日は京都付近では傘が必要になりそうです。
秀吉は光秀が強力な鉄砲隊を持っていること。
そして、その一斉射撃によって出鼻をくじかれれば、寄せ集めの多い秀吉軍が崩壊する恐れがあると感じていました。
そこで秀吉は軍配者と呼ばれる、当時占いや天気予報などを行えるものに伺いを立て、天気が悪くなる日を聞き出します。
これと同時代の兼見卿記、家忠日記、多門院日記などの日記によるとこの日の京都周辺の天気は
- 6月8日…大雨
- 6月9日…雨
- 6月11日…大雨
- 6月12日…晴
- 6月13日…雨 (山崎の合戦)
- 6月14日…日中まで大雨
- 6月15日…晴
となっています。
山崎の戦いが行われたのは6月13日でした。
大雨だと知った秀吉がその日を決戦の日に選んだことは想像に固くありません。
一方、得意の鉄砲戦で戦おうと思ってたのに大雨で鉄砲の威力が見込めないことが予想された光秀。
光秀も戦上手な武将で軍略に優れているので、秀吉の突進に備えて歩兵の幅を厚くする形に陣形を微調整します。
軍を厚くするということはサイドの守りが甘くなるということを意味するのですが、これが後に戦の決着をつけてしまうことになるとは、この時はまだ予想だにしていなかったでしょう。
山崎の決戦が始まる
山崎の合戦が始まったのは6月13日の午後4時でした。
明智光秀と羽柴秀吉は円明寺川という川を挟んで対峙していましたが、中央部で秀吉方の中川清秀と光秀方の伊勢貞興が戦い始めたことで戦いの火蓋が切って落とされます。
また、光秀軍の松田政近が秀吉軍の背後にそびえる天王山へと攻め入りますが、これには黒田官兵衛と羽柴秀長が対応します。
いずれの戦線も一進一退で、光秀軍も寡勢ながら善戦していました。
しかし、戦局が大きく動いたのは戦いが始まって2時間後の午後6時のことでした。
秀吉軍右翼の池田恒興と加藤光泰が、円明寺川を渡って津田信春を奇襲。
この奇襲に津田信春軍は大パニックに・・・。
勢いに乗った恒興と光泰は右翼から本陣に迫ります。
これによって中川清秀らも伊勢貞興・斎藤利三を押し戻し、光秀軍は総崩れになります。
兵数自体が少ないのでしょうがないのですが、ここに来てサイドの守りを甘くしていたのが裏目に出てしまった訳です。
この戦いで伊勢貞興、松田政近らは戦死。
斎藤利三もこの時は逃げ延びるも、後に捕らえられてしまいます。
光秀は一旦、勝竜寺城に引き上げ、そこから居城の坂本城へと向かいます。
しかし、その途中で小栗栖という村の落ち武者狩りの農民に殺され亡くなります(自害したとも)。
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こうして信長を討ち取るという、日本で最も有名な謀反事件を起こした光秀は様々な謎を残したまま命を落とします。
光秀が亡くなった後、光秀は何故信長を裏切ったのか、なぜ周囲への根回しなども行わず謀反に至ったのかなど様々な憶測や説が飛び交っていますが未だにその実像は謎に包まれています。
山崎の合戦は光秀に勝機があった?
羽柴秀吉、明智光秀といえば言わずと知れた織田信長の家臣の中でも名将として知られた武将です。
しかしその両者の戦いの決着は一方的な秀吉の勝利という決着で終わりました。
なぜ光秀は敗北したかをここまでいくつかの理由を挙げながらご紹介してきました。
主な理由は
- 根回しが足りず味方を募れなかったこと。
- 戦いの日に雨が降り主力と見込んでいた鉄砲が使えなかったこと。
ですが、実はもう一つ大きな理由があります。
それは今回戦場になった山崎の地形です。
この山崎という場所は天王山と淀川に挟まれた道幅の狭い場所。
しかも、あちこちに沼地が散在しているという、大軍を活かしたい秀吉側からすると非常に嫌な地形でした。
そして、実際に光秀が陣地を構えたのはその狭い場所を抜けた円明寺川周辺でした。
ではなぜ光秀は明らかに有利な地形の場所に陣を構えなかったのか?
実は、その山崎周辺には大山崎と呼ばれる古くから交通の要衝として栄えた町が有り、しかも光秀は本能寺の変の翌日、山崎の街の商人を安心させるために、大山崎において略奪や破壊行為をしないという命令を出していたのです。
「そんな約束を律儀に守らなかったところで、誰に怒られるわけでもないだろう」と言われるかもしれませんが、光秀はこの約束をしっりと守ったようです。
有利な地形を放棄したということで、ここにも光秀という人物の人柄が表れているように感じます。
つまり光秀は鉄砲のプロでありながら、この戦いにおいては秀吉に鉄砲の弱点をつかれ、また自らの真面目さが仇となって有利な地形を放棄してしまい、また性急な謀反が仇となって味方を募れなかったというまさしく本能寺の変のあとの行動が全て裏目に出てしまう結果となってしまったように見えます。
謀反人の最後にふさわしい結末といえばそれまでですが、果たして彼が何を思って謀反を起こし、また何を思って最期を迎えたのでしょうか?
謎の答えは光秀の命とともに消え失せ、秀吉という新たな英雄が誕生することになります。
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光秀に生きていてもらいたかった。
信長の元でどんな苦しみがあったのか、何となく想像できます。
信長や秀吉にはない知的で聡明な魅力が、ただひたすら惜しいです。