「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」徳川家康の辛抱強い性格を表した歌です。

今川義元の人質から始まり、織田信長、豊臣秀吉の下で忍耐強く天下を取る機会をうかがっていた家康。

 

豊臣秀吉が亡くなり、天下取りへと動き出した時には58歳という年齢でした。

 

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武田信玄から学ぶ

徳川家康は武田信玄と戦った三方ケ原の戦いで大敗を喫しています。

武田信玄は家康にとって簡単には越えられない壁であり、いつもその脅威に脅かされていました。

 

しかし、そんな信玄を家康は領国経営や戦をする際の手本にしていたようで、家康の経営手法や戦術は信玄に通じるところが多々見受けられます。

そして、武田家が滅亡した際には武田家の遺臣の多くを召抱え、勇猛で知られる「山縣の赤備え」を家臣の井伊直政に引き継がせます。

 

かつての敵を自分の軍に引き入れ、徳川軍はさらに強力になっていきますが、過去の遺恨を忘れて有能な軍団は自分の傘下に引き入れる、ここが家康の凄いところ。

現代で言えば倒産したかつてのライバル会社の社員を受け入れるような感じですね。

 

関連記事→井伊直政が率いた赤備えって何?武田信玄の家臣から続く系譜を解説!

 

一度は自分の会社が倒産させられるくらいにまで追込まれた会社の社員でも有能であれば雇う。

徳川家康は、感情的にならずに冷静に状況を判断し、理性で物事を考えられる性格だったように思います。

 

織田信長との同盟

家康は38歳の時に、正妻の築山殿と長男・信康を殺害しています。

これは信康が謀反を企てたなど色々な説があり、はっきりしたことは分かっていませんが、2人が武田家に内通したために織田信長が命令して殺害させたとも言われています。

 

もしそうだとすれば、家康は実の子供を自害させなければいけないほど立場が弱く、信長には逆らえない状況だったことになります。

家康は信長の要請で援軍として戦うことはあっても、信長に援軍を頼んだ時はなかなか援軍を派遣してくれなかったりと、かなりの苦労をしたようです。

 

同盟は対等なものではなく、家康は信長の子分のような感じ。

この経験が後に『鳴くまで待とう』という家康の性格を形成していったのかもしれません。

 

豊臣秀吉の下で

本能寺の変の後、天下取りに最も近かったのは家康ではなく秀吉でした。

家康は同盟者の信長の家臣に臣従しなければいけない状態になります。

 

さすがに、これは家康も簡単に了承するわけもなく、信長の息子と組んで秀吉に敵対します。

これが世に言う「小牧・長久手の戦い」で、大きな戦に発展することなく、講和に持ち込まれますが、意地でも秀吉の下につきたくない家康の気持ちがうかがえます。

 

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その後も秀吉は再三、家康に臣下の礼をとるように要求しますが家康は頑として拒否し、秀吉は最期には実の妹を家康の元に嫁がせ、母親も人質に出すなどして、やっと家康に臣下の礼をとらせることになります。

 

信長の家臣であり、低い身分から成り上がってきた秀吉の臣下となった事は家康にとって大きな屈辱。

そう考えれば、秀吉亡き後に強引に豊臣政権を潰しにかかった家康の行動が理解できます。

 

この家康の狡猾さは、大河ドラマ『葵徳川三代』でとても良く表現されています。

『葵 徳川三代』は家康の生涯がとても分りやすく描かれている歴史好きにはおすすめです。

 

ポイントを使えばU-NEXTというサービスで無料で視聴できるので、興味のある人はぜひ視聴してみてください。

 

天下人の資質

こういった流れを見ていると、やはり徳川家康という人物は辛抱強く忍耐を重ねた人物だということが分かります。

そして、その耐え忍んだ時期が家康を天下人の器へと育て上げたのかもしれません。

 

苦労人であった家康は普段は温厚で倹約家、そのため家臣からも慕われていたといいます。

しかし、勝負どころとみれば強引に仕掛ける事もできる、戦国武将として必要な資質を持ち合わせていた人物でした。

 

 

徳川家康は世界的にはどんな風に評価されてる?

家康は舶来好きだった信長・秀吉と違い、どちらかというと鎖国の印象も相まって外交に消極的な印象があると思います。

では、家康を後に知った世界の人達は彼をどのように感じていたのでしょうか?

 

徳川家康は世界ではどのように評価されてきたのか?

世界の人の意見を見ていきましょう。

 

家康を賞賛したマイケル・アームストロング

日本人以外が書いた家康に関する著書は勿論ありますが、中でも有名なのがアメリカのコラムニストであるマイケル・アームストロングの『アメリカ人が見た徳川家康(1983年)』をがあります。

 

その内容を要約すると、

 

  • 家康の江戸幕府は大変効率的で、各藩による地方統治の上に幕府という一国を統治する中央集権機構を打ち建てた。
  • 製鉄の増産や造船、大砲などの西洋技術の導入でヨーロッパ並みの技術革新を行った。
  • 武家諸法度による厳格な規則の制定によって、「力による平和」の政策を推進した。

 

これらを総評してアームストロングは「家康に比肩しうる国際的リーダーは見当たらない」とまで賞賛しています。

 

アームストロング以前は、日本人でも家康に対してここまで手放しで好意的に評価するような専門家はいませんでした。

このため、アームストロングの著書は家康に対する外国人の評価としてまず最初に挙げられるものとして知られています。

 

またアームストロングは家康の関ヶ原の戦いを、自らの祖国・アメリカの南北戦争に例え、ワシントンやリンカーンが長い月日をかけて打ち立てたアメリカ独立体制を家康は大御所であった10年足らずでやってのけた一流の政治家としています。

 

彼はコラムニストとはいえ、可能な限り集められる古史料を用いて忠実な考察をしたことでも知られ、その精巧さも含めて家康という人物像を塗り替えました。

 

家康の時代の教育と平和はずば抜けていた?

イギリスのノエル・ペリンが記した『鉄砲を捨てた日本人(1984年)』では、家康が行った鉄砲・火薬製造禁止令について着目し、徳川家の軍縮は世界史上類を見ない政策で、核武装が進む現代においても学ぶべき叡智があるとしています。

 

似たような題材を扱った本に静岡県知事の川勝平太氏が記した『徳川家康公と駿府(2002年)』があります。

この中で江戸時代期のイギリスが覇権主義に走ったのに対して、徳川幕府期の日本は鉄砲をほとんど使用しなかった平和的な時代であり、バスク・トクガワーナ(徳川の平和)と呼んでいるとしています。

 

後の明治維新にも絡みますが、諸外国では明治以降の日本がこうもすぐに近代化に順応できた理由として、江戸時代期の日本人の教育普及率がそれを底上げしたのだという話も有名です(当時の日本の識字率は欧米諸国を上回っていました)。

 

同じ東アジアの中国と比べると、中国はその後長きにわたって欧米の植民地支配を受けたのに対し、日本は鎖国や倒幕・維新、富国強兵を経てそれを防ぎ近代国家としての道を開きました。

それは結局、幕府という優れた統治を開いた家康の功であるとして家康は世界的な視野を持った政治家として尊敬されてい、ます。

 

 

家康の歴史観

さて、そんな家康自身はどのようにして帝王学を学んだのでしょうか?

それは歴史上の様々な人物です。

 

家康は幼少期には今川義元の人質として駿府にいました。

義元の軍師と言われる太原雪斎の教育を受け、中国や日本の古典にも興味を持ちました。

 

  • 論語
  • 中庸
  • 史記
  • 漢書
  • 六韜
  • 三略
  • 貞観政要
  • 延喜式
  • 吾妻鏡

 

といった中日の古典に精通し、幕府を開いてからも三浦按針からは幾何学、数学を学び、苦手とされた詩や文学を除けば幅広い興味を持っていたとされています。

 

彼が尊敬するのは、劉封・李世民・太公望・周の文王・周の武王・張良・韓信・魏徴といった人物で、長期政権を築き上げた英雄を好んでいます。

 

あとは最初にもお伝えしたように、自分を打ち破った武田信玄を心の師としたとされ、井伊の赤備えを武田の赤備えの後継として継承させたり、武田旧臣を多く登用したり(大久保長安、穴山梅節等)、五男に武田信吉と名乗らせて武田の名代を継がせるなどしてその尊敬の念を示しています。

 

徳川家康の死因

徳川家康は駿府城で75歳の生涯を終えます。

家康の死因は天ぷらの食べすぎや、食中毒だったと言われていました。

 

しかし天ぷらを食べ過ぎて苦しんだという記録はあるようですが、それからしばらくして亡くなっているので、それが直接の死因ではなく、「胃がん」ではないかと言われています。

年齢から考えて天寿を全うしたと考えてもおかしくはないと思いますが、確かな事は分かっていません。

 

家康は亡くなった後、久能山の東照宮に葬られ、一年後に日光東照宮に移されています。

これは家康自身が神となり、江戸の町を守護するため。

 

家康は自分が亡くなった後も江戸幕府を守ることを考えるほどに、徳川の時代が続くことを望んでいたようです。

 

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