豊臣秀吉に「100万の兵を指揮させてみたい」と言わせた武将。

それが大谷吉継です。

 

戦場での槍働きを得意とする福島正則や加藤清正とは少し異なり、策略や兵を指揮して戦うことを得意としていました。

そして、関ヶ原の合戦では徳川家康との仲が良かったにも関わらず、石田三成との友情に報いて西軍として戦った、義に厚い武将としても有名です。

 

吉継は関ヶ原の戦いの時は重い病気にかかっていて、輿に乗っての参戦だったと現代に伝わっています。

では、吉継がかかっていた病気とは一体何だったのか??

 

今回は大谷吉継について詳しく解説します。

 

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吉継の病気

一般的に大谷吉継がかかっていたとされる病気はハンセン病(らい病)と言われています。

 

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ハンセン病とは皮膚と神経が侵される感染症。

皮膚に赤い斑点(はんてん)ができ、酷い場合は顔や手足の形が変ってしまうこともあったようです。

 

もちろん神経が侵されているので、斑点になっている部分は感覚もなし。

顔の形などが大きく変ってしまう病気のため、昔は前世での行いが悪かった人が、その罪を今世にも引継いでなる病気だとされていました。

 

大谷吉継はこのハンセン病によって顔の形が崩れていたとされているため、ドラマなどでは顔を隠すために白い頭巾を被った姿で登場します。

 

豊臣秀吉と辻斬り騒動

ある時、大坂で町の人が次々と斬られるという辻斬り騒動がおこります。

この騒動は『千人斬り』と呼ばれ、この時に犯人として疑われたのが吉継でした。

 

これは、『ハンセン病を治すために吉継が辻斬りを行い、毎晩人の血をなめている。』という噂が立ったため。

もちろん、この時は吉継以外の犯人が捕まり事件は解決していますが、この犯人が捕まるまでは世間では吉継にかけられた疑いが強かったようです。

 

ただ、そんな状況にあっても豊臣秀吉は吉継がそんな事をするはずがないと吉継に対する信頼が揺らぐ事はなかったとされています。

 

ハンセン病は事実?

ここで気になるのが吉継は本当にハンセン病にかかっていたのか?ということ。

実は大谷吉継がハンセン病にかかり白い頭巾を被っていたというのは江戸時代から登場する逸話。

 

当時の書物にはそういった記録は登場しないことから、大谷吉継がハンセン病にかかっていたというのは後世に作られた創作話である可能性が高いようです。

 

大谷吉継は病気で白頭巾というイメージが完全に定着しているので、ここから白頭巾を被っていない姿に脳内変更するのは少し大変かもしれませんね(笑)。

 

 

吉継の武将としての才能

ハンセン病の真偽はともかく、関ヶ原の戦いの際に輿に乗って参戦していたという記録があります。

なので足が悪かったか、体が弱っていた可能性が考えられます。

 

この時、吉継は年齢で言うと40代の前半から半ばくらい(生まれた年がハッキリ分かってないため)。

目も見えづらくなっていたようなので、ハンセン病ではなかったにしても、何か他の大きな病気にかかっていたのかもしれません。

 

しかし、そんな状態でも関ヶ原の戦場に出陣して軍勢を指揮。

後に徳川家康の信頼厚い外様大名となる藤堂高虎、京極高知の軍勢と激戦を繰り広げます。

 

この2隊と交戦するだけでもかなりの労力を必要としますが、さらに小早川秀秋が裏切り、大谷隊に突撃してきても、見事に小早川軍を撃退しています。

 

吉継はある程度小早川秀秋の裏切りを予想していたと言われますが、それだとしても3隊を相手に優勢に戦いを進める吉継の用兵の才能はかなり秀でていたのではないかと思います。

 

関連記事⇒小早川秀秋の死因は大谷吉継の呪い?関ヶ原での裏切りの理由!!

 

豊臣秀吉の下で武功を挙げた人物として有名なのが加藤清正福島正則片桐且元といった賤ヶ岳の七本槍。

吉継はこの七本槍には名を連ねていませんが、この賤ヶ岳の七本槍は個人で挙げた武功を評価したもの。

 

私は吉継は黒田官兵衛と同じく、個人で槍を振るっての武功よりも采配を使って軍勢を指揮することに長けた武将だったのではないかと思っています。

 

関ヶ原の戦いでの活躍

吉継の下には戸田勝成、平塚為広という二人の武将がいました。

勝成と為広はどちらも武勇に優れ、諸大名から信頼も厚かったとされる名将で、為広は目の見えない吉継に代わって軍勢の指揮をとります。

 

関ヶ原の合戦では同じ西軍として出陣していた小早川秀秋が裏切り、大谷吉継の部隊に攻めかかってきます。

しかし、かねてより秀秋の裏切りを察知していた吉継はしっかりと備えしていて、平塚為広、戸田勝成両将は数百の兵で小早川軍15000を一時は500mも押し返します。

 

これはまさに獅子奮迅の働きで、この勢いに小早川勢はさらに後退していきます。

しかし吉継達も予想していなかった第2、第3の裏切りが起こり大谷勢は次第に劣勢に。

 

予想外の裏切りに合い、軍勢を支えきれなくなった戸田勝成、平塚為広の両将はついに敵方に打ち取られ、無念の最期を向かえます。

 

為広が討死の前に討取った敵将の首と一緒に吉継に届けさせた辞世の句があります。

 

「君がため 棄つる 命は 惜しからじ 終に止まらぬ 浮世と思えば」
【あなたのために捨てる命なら惜しくはない どうせ命は永遠ではないのだから】

 

この書状を見た吉継は、

 

「契りあらば 六の巷で 待てしばし 遅れ先立つことは あるとも」
【遅れてしまう事もあるかもしれないが 必ず行くので待っていてくれ】

 

と返しています。

 

このやり取りから、2人の間に友情にも勝る信頼関係があった事が伺えます。

 

 

藤堂高虎が関が原に吉継の墓を建てる

その後、吉継は敗戦が濃厚になった事を家臣から聞くと家臣に介錯を命じ自刃。

その際に吉継に日頃から恩義を感じていた家臣たちは吉継の恩に報いるため敵陣に切り込んでいったそうです。

 

大谷吉継の首は、介錯を行い最期を見届けた家臣の湯浅五介が関ヶ原に埋めたと言われています。

大谷吉継、戸田勝成、平塚為広は他の大名からも一目置かれ、とても良い関係を築いていたようで、諸将の死を聞いた敵方の武将もその死を惜しみ涙を流したと伝わります。

 

その証に、現在関ヶ原にある大谷吉継の墓所は関ヶ原の戦いで敵として戦った、藤堂高虎が建てたものです。

 

激戦を繰り広げた敵の大名の墓所を建てる。

これは吉継に対して尊敬の念がないとできる事ではないと思います。

 

もちろん、敵の墓を建てることで徳川家にあらぬ疑いをかけられる可能性もあります。

藤堂高虎が吉継の墓を建て、徳川家もそれを咎めなかったのか?

 

それは吉継に人望があっただけでなく、その生き方が他の武将からも尊敬されていたからではないかと思います。

 

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娘を真田信繁の嫁に

大谷吉継は娘を真田信繁(幸村)に嫁がせているので、信繁にとっては義理の父親。

信繁の父親である真田昌幸も大谷吉継と同じ智略の将で、私の大好きな武将なのでこの2人に交流があったというのは個人的には嬉しい限りです。

 

信繁に嫁いだ吉継の娘の名前というのは正確には分かっておらず、竹林院という法名だけが伝わっています。

竹林院と信繁は多くの子供をもうけ、夫婦仲も良かったようです。

 

信繁が大阪の陣で亡くなってからは徳川家康の許しを得て、京都で暮らしたと伝わります。

 

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石田三成との友情

石田三成が実質的な大将となり、徳川家康と戦ったのが天下分け目の戦いと称された関ヶ原の戦いです。

豊臣家の一家臣であった石田三成が、当時最大の大名であった徳川家康に戦いを挑む。

 

どう考えても無謀なことでしたが、この無謀な戦いに挑むために三成が最も頼りにした武将が大谷吉継です。

 

大谷吉継は豊臣秀吉が「100万の軍勢を預けて指揮させてみたい」と言ったとされるほどの才覚の持ち主で、三成の親友であったとも言われています。

大谷吉継は最初、徳川家康に敵対することの無謀さを三成に伝えて思い止まらせようとします。

 

しかし、三成の意志は固く、再三の説得にも応じません。

そして、さすがの吉継も最後には三成の覚悟に打たれ、勝算が少ないと分かっていながらも友情を重んじて共に挙兵することを決めます。

 

その際には三成に対して、

 

「あなたは普段から態度が横柄で知恵才覚は優れているが勇気がなく決断力も乏しい。あなたの命令をきく大名は少ないので毛利輝元と宇喜多秀家を上に立てるべきだ。」

 

と忠告しています。

 

そして吉継は家康との対決に向け書状を発し諸大名の調整をしたり、家康方の武将を策略を用いて撹乱したりと、その才能を存分に発揮します。

 

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