伊達家17代当主の伊達政宗は仙台藩初代藩主となる人で、独眼竜という異名を持つ大人気の戦国武将です。

その政宗が、人気を二分する真田信繁(幸村)と直接刃を交えたのが大坂夏の陣。

 

今回は、この大坂夏の陣の様子と、政宗が独眼竜と呼ばれるようになった理由についてです。

 

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独眼竜の由来

まずは伊達政宗が独眼竜と呼ばれる理由から。

1567年、政宗は伊達家の嫡男として誕生しますが、幼少期に天然痘という病気にかかります。

 

現代では地球から根絶された感染症ですが、致死率40%以上で、強い感染力を持つ天然痘はワクチンの存在しなかった当時、凄まじい脅威でした。

 

伊達政宗は幼少の頃にこの病気にかかってしまったのです。

 

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何とか一命をとりとめますが、瘢痕が残るのが天然痘の特徴。

その結果、右目に惨い痕が残って視力を失ってしまう事になり、右目を家臣の片倉小十郎景綱に切り取らせたという逸話も残っています。

 

そして、片目を失ったコンプレックスから伊達正宗を開放したのが独眼竜という異名です。

 

ある時、学問の師である虎哉宗乙から、中国の後唐の時代に活躍した李克用という人物が、漆黒の甲冑を身にまとい、隻眼であったという話を聞いた政宗。

この時に自分と李克用を照らし合せてコンプレックスから脱却したといいます。

 

実はこの李克用の異名が独眼竜。

独眼竜という異名は政宗を勇気付けるのにピッタリな名前だったようです。

 

つまり、独眼竜という名は伊達政宗のオリジナルではないんですね。

 

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大坂夏の陣

戦場での戦いぶりも近隣諸国を恐れさす徹底ぶりで、一時は天下を狙う伊達政宗。

しかし、豊臣秀吉がすでに天下統一目前で、この時流に逆らうことができず小田原征伐時に豊臣秀吉に服従します。

 

豊臣秀吉亡き後は徳川家康と縁戚関係を結び、関ケ原の戦いや大阪の陣では東軍の戦力として徳川家康に協力します。

そしてこの大阪の陣で激突することになるのが、赤備えを率いた真田信繁(幸村)です。

 

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真田信繁の正確な生まれはわかっていませんが、伊達政宗と同じ1567年の誕生と言われているので、同年代のライバル同士の対決と言われます。

これまでに伊達政宗と真田信繁が戦ったという事はなく、そこまで深い繋がりもなかったのではないかと思います。

 

2人が正面からぶつかり合うことになるのが1615年の大阪夏の陣。

東軍の大和方面四番手に位置する伊達政宗は、道明寺口の小松山に陣を構え東軍に損害を与えていた後藤基次を攻めます。

 

このとき後藤基次を討ったとされるのが「鬼の小十郎」の異名を持つ伊達政宗の重臣・片倉重長で、これを道明寺の戦いと呼びます。

 

真田信繁との激突

これに対して、西軍は誉田村まで兵を集め進撃してくる東軍に反撃。

その指揮を執ったのが真田信繁です。

 

後藤基次を討って勢いに乗る東軍でしたが、真田信繁は敵をおびき寄せて反撃する真田家のお家芸で東軍を押し返し、撤退させます。

このとき直接戦ったのが真田信繁と伊達政宗配下の片倉重長と言われています。

 

片倉重長は得意の騎馬鉄砲隊を駆使しますが、伏兵を置きながら神出鬼没の戦いをする真田信繁に翻弄され苦戦します。

伊達政宗本陣の援軍があって、敗走するまでには至らなかったようですが、真田軍の強さに片倉重長は相当感心した様子です。

 

しかし、西軍は大阪城の総大将代行・大野治長が全軍の撤退を決めます。

東軍は退却する西軍を追撃したいところですが、遂に追撃戦を行うことはありませんでした。

 

この決断には、伊達政宗の意向が強かったようです。

 

大和方面1番隊の大将である水野勝成らは、当然ながら追撃を主張します。

水野勝成と言えば鬼日向と敵を恐れさせ、大将ながら一番槍を狙って先頭を駆けるような猛者です。

黙って敵の退却を見守るはずもありません。

 

しかし勝成からの追撃要請を伊達政宗が断固拒否します。

理由は兵の疲れを考慮したからという話ですが、殿(しんがり)を務めるだろう真田信繁の伏兵戦術を警戒してのことだったのではないかと思います。

 

真田信繁はその後、徳川家康の本陣目指して突撃し、討ち死にしますが、その娘や次男をかくまったのが伊達家であり、片倉重長です。

 

この話は下記の記事に詳しく記しました。

 

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