織田信長の父親・信秀とライバル関係に合った斎藤道三(利政)。
道三は娘の帰蝶(濃姫)を嫁に出してから、信長のことを高く評価するようになっていきました。
しかし、息子の義龍を可愛がらなかったため親子の仲が険悪になり、最後は実の息子に討ち取られてしまいます。
道三は死の直前に「信長に美濃を譲る」と言い残したとされているのですが、なぜ実の息子ではなく信長に美濃を譲ると言ったのでしょうか?
今回は「美濃のマムシ」という異名をとった斎藤道三についてみていきましょう。
斎藤道三を知るための6つのポイント
- 油売りから身を起こして謀略の限りを尽くした武将。付いたあだ名は「マムシ」。
- 自分の主君を討ち、他家を乗っ取るなどのして美濃の戦国大名となる
- 北条早雲・宇喜多直家と並んで戦国の梟雄(きょうゆう/残忍で猛々しく、悪知恵が働く人)と呼ばれた
- 新史料の発見により、道三の国盗りの経緯は父・新左衛門尉(しんざえもんのじょう)との父子2代で成し遂げられたと判明
- 嫡男・斎藤義龍に家督を譲るも、のちに不仲となって義龍に長良川の戦いで討たれる
- 娘婿となった織田信長の実力を見抜き、死の間際に美濃を譲ると表明していた
斎藤道三ってどんな人?簡単に概要を解説
下克上で美濃国を奪い取った「国盗り」で知られる斎藤道三ですが、出自についてはっきりしない部分も多いです。
このサイトでは何度も変えられた彼の名前を斎藤道三で統一してご紹介します。
【出身国】山城国(現在の京都府)(*諸説あり)
【生没年】1494年~1556年享年63歳(*生年1504年説あり)
【主な経歴】僧侶→油商人→長井家家臣→美濃守護代→美濃国主
斎藤道三は戦国時代の前半に活躍した武将です。
幼いころ、京都の妙覚寺に入って法蓮房と呼ばれました。
その後、僧侶をやめて油売りの商人となり、山崎屋を名乗りました。
油を売るパフォーマンスが評判になり、武士になることを勧められた道三は武芸にはげみます。
この時に、美濃国を治めていた守護大名の土岐氏の重臣である長井氏や斎藤氏のもとに出入りをして親しくなります。
槍と鉄砲の達人となって長井長弘に仕官がかなった道三。
のちに主君・長井長弘を討ち、その家を継いでしまいました。
その後、美濃守護代・斎藤利良が病死すると今度は斎藤家を乗っ取ります。
そして美濃の守護・土岐頼芸の弟を毒殺し、頼芸と子の頼次を尾張に追放。
一介の油商人だった斎藤道三は、掴んだチャンスと謀略でついに美濃国主にまで成り上がったのです。
斎藤氏のあとを継ぐと、道三は居城である稲葉山城を築城。
隣国の織田信秀(織田信長の父)と戦いを繰り返しますが、最終的には娘の帰蝶を信長に嫁がせることで同盟を結んでいます。
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下克上のモデルケースともいえる存在
梟雄(きょうゆう)と聞くとみなさんはどんなイメージを持たれるでしょうか?
「残忍で悪知恵が働く人」という言葉なので、あまりいいイメージを持つ方は少ないかもしれませんし、逆にワイルドで欲望に対する素直さが好きだという方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、よく考えれば戦国時代とは乱世であり下剋上の時代と言われています。
そういう意味では、今回ご紹介する斎藤道三は誰よりも戦国大名らしい戦国大名で、下剋上のモデルケースとも言える人物です。
そんな道三はいかにして下克上を成し遂げ、なぜ美濃を治めるまでになったのでしょうか?
※斎藤道三は「峰丸→法蓮房→松波庄五郎→西村勘九郎正利→長井新九郎規秀→斎藤新九郎利政→斎藤道三」という順番で名前が変わっていますが、今回は斎藤道三で統一しています。
最初は商人として才能を現す
叩き上げで出世したタイプの武将の生い立ちを紹介するとき、出自がはっきりとしないというのはよくあることなのですが、この斎藤道三がまさしくそれ。
道三の若い頃の様子はもちろん、実は生年もいまいちはっきりとは分かっていないません。
こんなに有名な人なのに……。
なので正確かどうかは分かりませんが、一応俗説によると1494年生まれ。
出自は油問屋の奈良屋又兵衛の娘と結婚し、山崎屋という屋号の油商人になったという話しが有名です。
道三の商売の腕はなかなかのものだったようで、油を注ぐ時に一文銭の穴に油を通し、もし失敗したらお題は貰わないという一種パフォーマンス的な商法で美濃で評判になります。
そして、商才という形で才能が開花しかかってい道三は、土岐氏の家臣、長井長弘に仕えることになります。
美濃守護の土岐氏に仕えてからの生い立ちもなかなかに釈然としないものです。
道三の才能を気に入った長弘は土岐政房の長男、土岐政頼とその弟の土岐頼芸にも目通りさせられます。
特に弟の頼芸には気に入られ、何かと頼りにされ信頼されるようになります。
なんだか随分話がうまくいきすぎているような気もしますが、この手の叩き上げの武将は出自がはっきりとしないことがほとんどなので細かいことを気にしてはいけません。
まずは有力人物を補佐して出世!
斎藤道三が本領を発揮し出すのが1517年。
土岐政房の二人の息子の兄土岐政頼と土岐頼芸の家督争いが勃発した時でした。
家督争いの原因は父が弟の方を可愛がっていたというよくあるパターン。
父・土岐政頼はまだ存命中であったものの、頼芸側につきます。
この家督争いにおいて、道三は弟の頼芸に気に入られていたので頼芸側につきます。
そして合戦自体は頼芸が敗北し、政頼が勝利しました。
しかし頼芸を後押しする長井長弘や道三たちは諦めず、翌年の1518年に再度戦いを挑みこれに勝利。
政頼は越前に逃れます。
晴れて美濃守護へとなった土岐頼芸。
さらにその頼芸を推していた長井長弘や斎藤道三も家中での発言力が増して、長井長弘は斎藤家の実務を一手に担うことになります。
斎藤道三が普通の武将であればおそらくこれだけでも十分満足だと思われますが、彼はこんな発言力が家中で増したくらいで満足できるほどの器ではありませんでした。
ここまででも十分野心的だったと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここから美濃のマムシと呼ばれた武将の本領が発揮されます。
主家を乗っ取って美濃を平定
その事件は1530年正月、もしくは1533年に起こりました。
斎藤道三はこの年に長井長弘を不行跡(職務怠慢)だとか頼武との内通だとか理由をつけて妻とともに殺害。
さらに1541年には主君である土岐頼芸とも不仲になります。
なぜかというと、斎藤道三が土岐頼芸の信頼している弟の土岐頼満の食べ物に毒をインしちゃったから。
(そりゃ不仲にもなるわ……。)
頼満は毒殺され、道三は土岐頼芸とも対立するようになります。
頼芸は既に和睦していた土岐頼純(土岐政頼の息子)とともに美濃の国を専横していた道三という共通の敵と戦うこととなります。
こうして長い時を経て土岐家のわだかまりが解消したのは喜ばしいものの、1542年には土岐頼純のこもる大桑城が落城。
さらに頼芸は息子の頼次とともに尾張に追放されるなど、情勢は芳しくありませんでした。
そこで土岐頼純と頼芸はそれぞれのコネを使って美濃国を取り返そうと作戦を変えます。
1544年には朝倉孝景が名将・朝倉宗滴を派遣。
斎藤軍に勝利して道三の同盟相手であった六角氏との連絡路を遮断し、そこを織田信長の父である信秀が稲葉山城まで追い詰めます。
しかし稲葉山城を落城させるどころか、織田軍は壊滅的な被害を出して撤退。
頼芸たちにとっても美濃奪還とはいきませんでした。
そんな中、これまで戦っていた斎藤道三と、土岐・織田・朝倉・六角連合の間に和睦が成立してしまい、頼芸は織田信秀という後ろ盾を失います。
しかもこの和睦の条件が土岐頼芸が美濃守護の座を退くことであったので、頼芸にとってはなんとも残念な結果となり、歴史の表舞台から姿を消すことになります。
そして織田信秀らと同盟を結んだ斎藤道三は、その信秀の息子・信長に娘の帰蝶を娶らせるなどして美濃の支配を磐石にしていくのでした。
道三死亡から斎藤家滅亡
剃髪して斎藤利政という名前を道三に変えたのは1554年頃。
この年に道三は家督を嫡男の斎藤義龍に譲り隠居します。
これで安心と思ってた斎藤道三。
しかし思わぬところから斎藤道三への反乱の火蓋が切られます。
なんと1556年に家督を譲った斎藤義龍が道三に対して謀反を起こしたのです。
なぜ義龍が謀反を起こしたのか?
これには諸説ありますが、ひとつは道三が義龍を嫌っており、廃嫡すら考えていたというものです。
現にこの時義龍はその道三が可愛がっていた他の弟である孫四郎や喜平次を殺害しています。
その他の説としては、義龍が自分は道三の息子ではなく美濃守護を奪われた土岐頼芸の息子であるというのを信じたというもの。
道三の妻は元々、頼芸の妻で、義龍が生まれた時期というのが微妙な時期だったので、義龍は道三の子供ではない可能性があったのです。
この情報が真実なのかどうかは置いといて、私は義龍がプロパガンダ(政治的意図を含んだ宣伝)としてこの情報を喧伝して回ったというのは大いにありえる話だと思っています。
実際このあと長良川の戦いと呼ばれる斎藤義龍と斎藤道三の戦いが起こるのですが、この時土岐氏の譜代家臣たちはこぞって斎藤義龍の側についています。
そう考えると、義龍のプロパガンダが功を奏したといえるかもしれません。
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先ほど述べたとおり、義龍は謀反を起こすにあたってまず自分の弟二人を呼び出して殺害。
驚いた道三は大桑城に逃れます。
そこで兵士を集めようとしますがなかなかうまくいきません。
それどころか西美濃三人衆として知られる氏家卜全、安藤守就、稲葉一鉄などの重臣たちは道三を助けるどころか義龍の側につきます。
この騒ぎは尾張まで伝わり、織田信長までもが援軍を率いてやってくる事態となりました。
息子の義龍と対決!長良川の戦いでの最期
道三と不和となった嫡男・義龍は弟たちを謀殺して父親に宣戦布告。
1556年に父子が長良川で対決します。
軍勢は斎藤義龍が17500余名の兵士を集めたのに対し、斎藤道三は2700余名。
さらに道三の目に飛び込んできたのは斎藤義龍の隙のない見事な布陣でした。
道三は当時うつけと呼ばれていた織田信長の能力をいち早く見抜いた人物として描かれていますが、爪を隠していたのは信長だけではなかったということを思い知ります。
道三は義龍のことを「無能」とあなどっていて、武将としての資質を高くは評価していなかったとされています。
しかし、義龍は道三に対して反発を持っていた土岐氏の家臣たちをうまく取りまとめ、道三への援軍を出してきた織田信長へも素早く対処して救援を阻んでいます。
道三は息子(義龍)の才能を最後になって思い知らされたのかもしれません。
長良川の戦いは義龍ペースで進み道三は劣勢に。
そして戦いの中で井上道勝ともみ合う最中に、小真木源太にすねを払われ首を取られたのが道三の最期でした。
そして最初に組みあった者の証拠として、井上道勝に「鼻を削がれた」と伝わっています。
享年は63才。
ある意味で梟雄らしい最後と言えなくもない豪快な最期でした。
長良川の戦いの死の前日、道三は遺言状を用意していました。
そこには「娘婿の織田信長に美濃一国を託すこと」「我が子への出家の勧め」「病気で死ぬのではなく、戦場で悟りを開けるのは嬉しい」と書かれていたそうです。
道三は息子の義龍に討ち取られるという悲運の最期を遂げますが、道三亡き後、織田信長が遺言通りに斎藤氏を滅ぼして美濃を手に入れています。
一方、この戦いで見事謀反を成し遂げた斎藤義龍でしたがこのわずか5年後に急死。
まるで下克上の体現のような斎藤家は戦国時代の勢力図から姿を消すのでした。
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残酷な成り上がり者?いえいえ下克上を体現した戦国武将です
さて、このように斎藤道三の人生を見返してみてもらってどうでしょうか?
因果応報をこれほど体現している人物でありながらなんだか不思議とざまあみろという言葉が出てこないのは私だけでしょうか?
彼の生き方はなんとも豪快で、いっそ清々しい印象すら受けてしまいます。
もちろん美濃を奪われた土岐頼芸や殺害された長井長弘夫妻のことを考えれば因果応報なのは間違いなのですが、しかし彼のある意味野心に忠実な生き方というのは戦国武将という意味では非常に戦国武将らしいとさえ思ってしまいます。
現在でも好きな武将ランキングが開かれれば上位に食い込む斎藤道三。
彼の実にワイルドな生き方は確かに今尚多くの人を魅了しています。
道三が築いた稲葉山城は難攻不落の名城に
道三が斎藤家を継いだ後、稲葉山の山頂に城を作り始めました。
それまで土岐氏が美濃を治めるために使っていた川手城は平野の真っただ中にあり、守るのに適していませんでした。
そのため、道三は山の上に守りが固い稲葉山城を築城します。
1547年に美濃守護だった土岐氏が尾張の織田信秀とともに稲葉山城を攻めた時は稲葉山城でこれを撃退。
道三の死後、織田信長も再三にわたって稲葉山城を攻めましたが、7年間、攻め落とすことができませんでした。
このことからも分かるように稲葉山城は難攻不落の堅城。
後に竹中半兵衛が奇策を使って占領するまでは、見事に敵の軍勢を退けています。
稲葉山城の守りの固さを痛感した織田信長は稲葉山城の名を岐阜城と改めて自分の本拠地としています。
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<新説登場>の国盗りは親子二代によるもの!?
近年発見された信憑性の高い史料「春日力(かすがつとむ)氏所蔵文書」によると、道三の父親・新左衛門尉(しんざえもんのじょう)が長井氏に仕えたことがわかります。
つまり、通説によるこの時点までの斎藤道三の経歴は彼の父親によるもの。
道三の「国盗り」は、父子二代にわたって実行されたと考えられるようになってきました。
なぜ斎藤道三はマムシと呼ばれるの?
マムシは昔から日本にいる毒蛇です。
斎藤道三の下克上の荒っぽさや謀略を駆使したイメージが、噛まれれば命を落としかねないマムシのようだったからでしょう。
謀略の方法には土岐頼芸の弟・賴満の毒殺もあったと言われ、まさに「毒蛇」そのものですね。
豪華キャストで繋がっている道三の親戚関係
斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう/もしくは濃姫)は織田信長の正室。
もともと信長の父親・信秀と道三とは隣国同士で争っており、帰蝶と信長との結婚は、織田氏と斎藤氏との同盟を結ぶための政略結婚でした。
そして帰蝶のいとこになるのが明智光秀です。
その彼は、道三の家臣でもありました。
斎藤道三を軸に繋がった信長と光秀。
やがて光秀は信長の家臣となり、本能寺の変で信長を滅ぼす・・・という伏線がもうここから始まっていますね。
斎藤道三の家紋「二頭立波(にとうたつなみ)」の意味
道三が斎藤家を継ぐまで、斎藤家には撫子(なでしこ)の家紋がありました。
道三はこれとは別の家紋を用いるのですが、それが二頭立波です。
もともと、波は力強い文様として武家の家紋に用いられました。
斎藤道三は斎藤家を継ぐにあたって自らデザインした二つの波がしらを持つ立波を家紋としました。
娘の帰蝶(濃姫)を信長の嫁に
道三の娘の名はいくつか伝えられています。
もっとも有名なである「濃姫」は、美濃国の姫という意味で、高貴な女性を直接名前で呼ばない当時の習慣によってつけられた通称です。
わずかに残された資料では、「帰蝶」もしくは「胡蝶」などとされていて、はっきりしたことはわかっていません。
彼女の最後についても、本能寺の変で死亡したとも生き延びたともいわれます。
いずれにせよ、気性が激しいことで知られる信長の正室を長くつとめたことは確かで、それだけでも彼女には魅力なり能力なりがあったとみてよいかもしれません。
斎藤道三関連の小説『国盗り物語』
これをベースに他の司馬作品を網羅して、かつてNHKの大河ドラマ「国盗り物語」も放映されました。
このドラマの前半は斎藤道三が主人公だったのです。
また、2020年からNHKにて放映される大河ドラマ「麒麟がくる」では、「美濃編」において本木雅弘さん演じる道三が登場します。
本編では、道三と父親による親子二代で美濃の国盗りを目指す「新説バージョン」でのドラマ展開が期待されます。